台湾とフイリッピンの間の海をバシー海峡と言う。
昭和43年、日本を出てバシー海峡に入らんとする時であった。
「材木船沈没、救助頼む」の救援要請電報が舞い込んだ。
日本の船であった。
セオル号ではないが、材木船の沈没事故はよくあることだ。
材木は軽いため、甲板上に高く積み上げる。
その材木が荷崩れすると、沈没しやすいのだ。
人命救助は、海洋国際法上、絶対的遵守義務がある。
針路を右に変え、現場に向かった。
遭難後、一日経過の現場であった。
付近には、救助に駆けつけた、日本船が10隻ほどいた。
十数人が既に救助され、十数人が未だ行方不明であった。
現場付近には、積み荷の材木が散々としていた。
材木をスクリューに巻き込んではならない。
材木を発見するたびに、それをかわし、行方不明者の捜索にあたった。
その捜索にあたった次の日であった。
フイリッピンから米軍の飛行機が現場に来てくれた。
我々の救助活動をサポートしてくれるのだ。
船からは見えないが、上空の飛行機からは良く見える。
「どこどこに残骸が浮いている」との情報をくれるのだ。
その情報だが、発光信号で送られてくる。
モールス信号を受けるのは、無線士の役目であるが、
発光信号を受けるのは、航海士の役目である。
上空を飛ぶ飛行機から発せられる光を目で追いながら、
一字一字読み取るのは、大変だ。
幸いに、私の当直中には、一度だけであった。
それも簡単な英文だったので、無能がばれずに済んだ。
さて、そんな捜索中であった。
私は、船橋の左ウイングにあって、前方海上を見張っていた。
前方から米軍機が飛んで来た。
そして、私のすぐ横、100mほどだろうか、を通過した。
操縦士の顔が見えるほどに近い! そして、 低い!
飛行機は本船の後部を通りすぎた。
私は、その陰影を目で追っていた。
と、飛行機は、そのまま海に飛び込んでいくではないか。
何が起こったか、瞬間的に判断がつかなかった。
そして、多分、10秒ほどだろうか、
ぼっと火が付き飛行機が燃え出した。
墜落事故だ! 始めて気付いた。
今日は、シンガラジャに行く日、
その出発時間がせまって来て、書く時間がありません。
つづきは、シンガラジャ(一泊どまり)から帰ってきてからにします。