ブログで公表していた、曽我さん探しであるが、
(註) 曽我さん....
バリ島マルガラナの英雄墓地(1372番)に祀られる、
インドネシア独立戦争で戦死したバリ島の英雄。
その曽我さんの遺児が、マデ・スラジャさん。
父親がオランダ軍に殺されたのは、スラジャさんが3歳の時。
それから70年、未だ日本の父親(曽我)を探せないでいる。
なんとか探せないか、
私は、ある新聞社とテレビ局に投書した。
新聞社の方からは探してみるとの返事があった。
それから随分と経ったが次の音沙汰がない。
テレビ局の方からは、なんの返事もない。
曽我という苗字だけで探すのは、難しいのだろう。
スラジャさんには、シンガラジャにお姉さんがいた。
もうお亡くなりになっている。
が、お子さんに何らかのデータを残していないだろうか。
を確かめたくて、
先日、もういちどスラジャさんに会いに行って来た。
が、お姉さんには、お子さんがいないということが解った。
さらにお姉さんとスラジャさんは、ひとつ違いの姉弟。
それほど記憶に差があるわけでない。
スラジャさんのお姉さんのルートからの捜索はあきらめざるを得ない。
ただ、新たに次のことが分かった。
1、スラジャさんが語るには、曽我さんは、1942年、バリに来たらしい。
2、曽我さんが殺されたのは、ブレレンのギギットの辺り。
3、母親と曽我さんが出逢ったのは、シンガラジャ。
4、母親がシンガラジャで商い(行商)をしていた時に出逢う。
5、出逢って、すぐに結婚したことになる。
6、今は亡き、平良定三(ニョマンブレレン)も日本の曽我さんを探したことがある。
7、探せなかったが、郷里は沖縄ではなかろうかと言い残しているらしい。
8、沖縄出身かも知れないというのは、私の予測と合致している。
サンゲのレストラン「サワ」で、曽我さんご家族と昼食をとる。
左から、カミさん、オレ、スラジャさんの奥さん、スラジャさん、お孫さん。
曽我さん探し....
難しいが、ひとつだけ望みがある。
スラジャさんは、曽我さんとお顔が似ているとこと。
曽我さんの奥さん(スラジャさんのお母さん)がそう語っている。
ただ、もう少し、痩せていて背が高かったとのこと。
この11月に、スラジャさんと東京の稲川さんが逢う機会があると思う。
当時、稲川さんは、海軍の民政部勤務でシンガラジャにおられた。
シンガラジャの兵舎で曽我さんと会っている可能性がある。
70数年前のことであるが、
稲川さんが、スラジャさんを見て、「ああ、あの時の」
なんて、思いだすことがあるかも知れない。
今は、それを期待したい。