Bengkel Anyar に行きたい、と思い始めて半年、
先日、ついに実現した。
何故にBengkel Anyar なのか...を先に書く。
ムンドックマランで独立闘争への旗揚げ式を行ったングラライ....
そのムンドックマランで、オランダ軍との戦闘があった....
ゲリラ戦法をとるため、見つかれば、移動しなければならない.....
その移動先(司令部)が、Bengkel Anyar だった.....
推測だが、
ムンドックマランに集結した兵は、約二千名....
旗揚げ式を終え、持ち場に帰った各地方部隊兵は、約千名....
残り千名ほどがBengkel Anyar の地に再集結....
(註) この後のバドゥカル山越えの兵はもっと減るが、
Bengkel Anyar の司令部 への
集結の初期は、千名ほどがいたと想像する。
Bengkel Anyar への司令部移動に際し、
Kukul Batu, Ketima, Sangketan などの地を経由している....
どこも司令部を置くに、安住の地ではなかった......
山へ山へ逃げるようにして行き着いた先がBengkel Anyar....
ングラライは、そこに司令部を置いた....
Bengkel Anyar に司令部を置くことができたングラライ....
ということは、その地の村人がングラライに協力的であったということ....
さて、
ということで、
1、Bengkel Anyar に、しばし安住できた理由のひとつに、
地勢的なものがあれば、それをこの身で感じたい。
2、それから、70年過ぎた今日、
今、村人は、昔の事をどのていど認識しているだろうか。
3、司令部があった名残が、今も残っているだろうか。
こうしたことが知りたいための
Bengkel Anyar だったのだ。
そのBengkel Anyar への道であるが、
ダイレクトに行くのではなく、バドゥカル寺院経由で行きたいと思った。
なぜなら、寺院の麓の町に、Wongaya Gede という町がある。
この Wongaya Gede。
ングラライ軍の司令部移動を阻むオランダ軍が、
みせしめに町全体を全焼した町である。
比較的大きな町なのに、それを全焼する....なんて、
その全焼につき.....
4、地元ではどの程度に語り継がれているだろうか。
ということで、Bengkel Anyar への道.....
目的とした 1~4 を知るためのルートとして、
次の各点経由を選んだ。
Tabanan
Biaung
Penebel
Mengesta
Wongaya Gede
Panatahan
Songketan
Bengkel Anyar
(註)Sangketan の前の道路を「モニュメント通り」としているが、
これは、私だけの思いで、つけたもので、正式名ではない。
モニュメントが二つあったので、その二つのモニュメントに、
どんな関連性があるか調べたく、その間の便宜的な呼称。