昨日のブログで、バリ島の残留日本兵を総括したいという記事を書いた。
それに先立ち、書くことの整理を思い立った。
目次と言えば大げさだが、
書くにあたっての頭の整理である。
おおよそ、次の順序で書きたい。
終戦直後のバリ島(日本の統治)
(海軍)民政部と第3警備隊 その1
台湾畜産と三浦襄 その2
(陸軍)阿南大隊 その3
林田大尉隊 その4
下士官のみのバリ その5
終戦直後のバリ島(バリ人の地下活動)
12月13日の暴動 その1
資金の調達 その2
バリの残留日本兵総括(まえがき)
1、何故にバリ名なのか、
2、バリ名の難しさ、
3、マルガラナの日本名刻字
こうした前書きから書きだす、残留日本兵の数だが、
最大公約数的に、次の約30名について書くことにしたい。
バリの残留日本兵の総括
海軍関係(情報元;月森省三大尉)
1、松井久年(兵曹長)
2、荒木武友(上曹)
3、堀内秀雄(主計大尉)
4、竹崎 清(機関兵曹長)
5、美馬芳夫(二曹)
6、高木米治(上曹)
7、土屋道義(兵曹長)
8、満冨四年(衛生一曹)
9、大久保宗臣(兵曹長)
10、松村 巌(一曹)
11、工藤 栄(兵曹長)
12、ソガ(民政部)
13、ワジャ(施設部)
平良氏随行(情報元;平良定三)
14、平良定三(陸軍軍曹)
15、木村三春(陸軍伍長)
16、田島 遙(陸軍軍曹)
17、中野 (陸軍伍長)
その他(情報元;各所)
18、ブン・アリ(陸軍中尉)
19、ブン、スラマット(ジャワ島より来る)
20、ブン、チャング
21、イ、チャング
ブン、チャングもイ、チャングも呼び方としては同じである、
但し、ブン、チャングは、
マルガラナの戦死者のひとりとして名を連らねている。
一方、イ、チャングは、カランガッサムの戦いで、
敵を深追いしすぎて帰って来なかった、
とバリ兵が証言している。
戦死日が違う。
ということで、二人は別人である可能性がある。
22、イ、グヌング
土屋道義もワヤン、グヌングと呼ばれていた。
但し、土屋道義は、1946年にジャワに渡っている。
が、ここにあげるイ、グヌングは、1949年12月27日まで、
バリ島で戦っていたと、バリ兵が証言している。
名前は同じでも、二人は別人である可能性がある。
23、イ、クトット
ここに挙げるイ、クトットは、
デンパサールの蘭印軍攻撃の作戦会議に出ている。
作戦会議があったのは、1946年4月8日のことである。
美馬芳夫も木村三春もクトットを名乗っていた。
が、美馬芳夫は、どちらかと言えば、
イ、ミマと呼ばれることが多かった。
また木村三春は、平良定三と一緒に、
パダンバイからバリ島に上陸しており、
4月8日の会議には間に合うべきもない。
であれば、ここにあげるイ、クトットは、
二人とは別人で、第3のクトットである可能性がある。
24、イ、マデ
マルガラナで戦死したリストに、この名がある。
マデと呼ばれた日本人は、
荒木武友、中野、高木米治の3氏がいる。
が、荒木はマデ、スクリと呼ばれ、
別にリストアップされており完全に別人である。
中野は、ジャワ島に移動中に水死している。
で、これら二人は、ここに挙げる、マデではない。
一方、高木米治は、ワナサリで戦死したことになっている。
高木米治の正式なバリ名は、イ、マデ、プトラであった。
タバナンの墓地では、ワナサリで戦死した日本人名を
ブン、マデとしているが、これはやはり高木米治であろう。
とすれば、マルガラナで戦死した、マデは誰なのか?
日本名のわからぬ、別人である可能性がある。
22、大舘
23、クトット、スニョウ
大舘は、ニョーマン、スニアと呼ばれていた。
が、ここに挙げるクトット、スニョウも大舘ではなかろうか、
との説がある。スニョーとスニアが似ているからだ。
が、ニョーマン、スニアとクトット、スニョウは、
第3子と第4子という呼ばれ方の徹底的な違いがある。
多分、別人であろう。
24、平田林之助
25、片岡三喜
26、グデ
ピンダ少尉が証言するングラライ軍の行軍録に、
グデと言う名の日本人が登場する。
グデとは、長男という意味であるが、
日本兵でグデと呼ばれたのは、田島遙だけである。
が、田島は、平良と共に「別働隊」であって、
ングラライ本隊とは、行動を別にしたはずである。
であれば、ピンダ少尉の証言するグデは、
別人である可能性がある。
なお、ワジャもワヤン、グデ、ワジャの正式名を持つが、
ここに挙げるグデとの関係は推測のしようがない。
27~34、氏名不詳
タバナンの戦没者墓地に7名の姓名不詳の墓がある。
墓守りは、言い伝えで全員日本人という。
であれば、これら7名が、ここまでに挙げた日本兵か、
それとも、まだまだ他にいた日本兵なのか。
確かめようがない。