日本軍がバリに居た頃の生き字引である稲川さん...
から、いろいろな方を紹介いただき、お話をお聞きした。
お聞きしたお話は、私の中では、みんなつながっている。
が、読者のみなさんには、つなげて読むことは難しいと思う。
で、これから、お聞きした話を書くが、
一つ一つの話、つなげながら書くことにする。
少々、長くなりまどろっこしくなると思うが、
そういう趣旨なので、ご理解いただきたい。
ということで、話は、
昨日の「ムグイ集結所」から書きだすことにする....
ムグイ集結所に、マルガの戦闘で戦死した96名が
運ばれ、首実検をした事実を書いた。
その首実検にオランダ側が
ムグイ集結所に連れて来て立ち合わせたのが、
残留日本兵の立場から堀内大尉、
バリ兵の立場からピンダ中尉であった。
堀内大尉.....
バリ名、ニョマン・サヤン。
ングラライが旗揚げしたムンドックマランでは、
軍の参謀のひとりとして、堀内大尉の像(写真右)がある。
銘板には、Horiuti ではなく、Herauti と刻まれている。
堀内大尉は、バリの独立軍の中では、
ングラライと同じ階級の中佐であり、バリ兵からも尊敬されていた。
独立戦争時は、堀内は常時ングラライと行動を共にしていた。
1946年7月23日、ングラライ軍はシンガラジャの地で解散した。
その後、ングラライと別れた堀内は、
5名の部下と共にバドゥンに向かって南下したが、
足を負傷し、その治療中にムグイのDesa Andunganで、
スパイに通報され、オランダ軍に捉えられた。
後日、堀内本人が稲川さんに語ったことによれば、
「逃げたが川の畔で捉えられた」とのこと。
で、マルガの戦闘のあった、11月20日は、
デンパサールのオランダ軍収容所に居たことになる。
その収容所から、首実検のためにムグイ集結所に連れてこられたのだ。
戦後、日本に帰った堀内は、
稲川さんに首実検に連れてこられた話をしている。
稲川さんと堀内さんの関係....
終戦5年後に発足した「日本バリ会」への入会に、
堀内さんを誘ったのが稲川さんである(入会;1999年1月)。
ピンダ中尉.....
私の過去のブログにも何度か登場している。
独立ゲリラ軍にあって、参謀的存在でングラライから信頼されていた人物だ。
手製の大砲を持つ、大砲小隊の隊長でもあった。
堀内と同じく、1946年7月23日のングラライ軍解散で、
ングラライと別れ、故郷のデンパサールの近くで潜伏し、
負傷し化膿した足を治療しているとき(1946年10月)に、
スパイに通報されオランダ軍に捉えられ、
デンパサール刑務所(本人曰く)に入れられた。
その刑務所から、首実検のためにムグイ集結所に連れてこられたのだ。
さて、上に「日本バリ会」のことを少々書いた。
戦時中、バリに居た2000名余の日本人、
そのうち300名ばかりが中心になって作った「会」である。
「日本バリ会」であるから、会員は時々バリを訪れる。
そうした日本人を迎え、歓迎してくれたバリ人がいる。
I Made Dhama MBA MM(写真)という人物である。
彼が中心になって、日本の「日本バリ会」に呼応して、
バリに「バリ日本会」が作られた。
そして、このMade Dhama なる人物だが、
上述のピンダ大砲小隊にあって、
大砲の弾(日本製)の管理役をしていた戦士である。
そして、そして....
Made Dhama は、既にお亡くなりになったが、
その奥様は今もご健在(写真)で、
しかも、しかも....
その奥様も独立戦争で戦った戦士(看護を担当)なんだそうです。
やっと、今日のブログの主題の「女戦士」に辿り着きました(笑)。
ということで、日本バリ会の稲川さんと、
バリ日本会のMade Dhama さんとは、長いお付き合い。
そのお付き合いの中に私も入れてもらい、ありがたいことです。
写真のバックの肖像画は、Made Dhama 氏と奥様です。
写真の右を見て下さい。
日本のお雛様が飾られています。
一家して、日本通なのです。
また女戦士であったのだから、ご気性もはっきりしています。
「守るも攻めるも.....」と、日本の軍艦マーチを歌いだすのです。
戦後、ご夫婦で頑張って来られたのでしょう。
事業が成功し、今は大きなお屋敷に住んでおられます。
稲川さんと我々夫婦、お昼もごちそうになりました。
ご馳走様でした。