お墓にもっとも近い家の坂の上の一軒家、
そこの主人(写真の左の人)が語ってくれた言葉を要約する....
1、日本兵がこの地に逃げ込んできた。
2、全員、バリ人に殺された。
3、日本人が来て、お墓を作った。
4、沢山の日本人がバスに乗って、ここに来た。
5、日本人は、お祈りに来た。
6、お祈りに来た者は、墓前で泣いていた。
7、その後、お墓はバリ人の手で整備された。
8、現在、お墓はバリ人がお護りしている。
そうだったのか、
ここが、「Candikusuma事件」の地だったのだ。
Candikusuma事件については、
当時、バリに住んでいた稲川義郎さんは、
「1945年12月Candikusumaにおいて、日本兵一個分隊が殺される」
とメモ書きしている。
一個分隊は、8~12名で構成される。
11名の死亡は、稲川メモと一致する。
Candikusumaは、海岸である。
海岸を警備していた、一個小隊(30~60名)がいた。
殺された一個分隊は、この小隊の一分隊だったのだろう。
だから、お祈りに来た人々は、同じ小隊の戦友だったのだ。
Candikusuma事件については、
マルガラナ小冊にも、次のように記述されている。
walaupun gerakan melucuti senjata jepang secara serentak di seluruh bali mengalami kegagalan total, gerakan tersebut berhasil menewaskan beberapa orang serdadu jepang dan merebut senjata mereka. seperti misalnya kejadian di candikusuma, kabupaten jembrana, rakyat berhasil menewaskan satu regu serdadu jepang di sebuah pos penjagaan pantai dan semua senjata dapat dirampas. di tengah kota negara,ibu kota jembrana,rakyat berhasil menyergap dua orang serdadu jepang yang sedang meronda,tetapi jatuh pula korban di pihak pejuang.
要約すると、
ジュンブラナのCandikusumaの地において、
日本兵を殺し、武器を奪うことに成功した…..と書かれている。
この時期、インドネシア各地において、
オランダ軍との戦いに備えるために日本軍から武器を奪おうと、
インドネシア人が日本軍を襲う事件が起こった。
Candikusuma事件もそのひとつである。
インドネシアでの日本兵の戦死者は、大東亜戦争時よりも、
敗戦直後の1945年9月~12月に多い。
即ち、連合国側よりもインドネシア人に殺された者の方が多いのだ。
が、それを責めることはできない。
ただ、言えることは、戦争は人間の理性を麻痺させるということだ。
もっと、悲惨なこともあった。
日本の敗戦後、日本兵が日本兵を殺す事件も起きた。
終戦を迎えて日本帰還直前に同じ日本人に殺されたのだ。
ここ、バリでも、そうした事件があった。
で、殺した本人が、日本に帰還している。
そうした事件は、ここには書かない。
悲惨すぎて、書く気にならない。
とにかく、
そういうことが起こりうるのが戦争なのだ。
できるならば、戦争は避けなければならない。
戦争は、他の者との間に起きる。
それぞれの価値観があって、
理屈や理性が通じない場合が当然にある。
きれい事だけじゃすまない。
戦争の未然防止のために、
抑止力は確固として持たねばならない。
最近の日本人!
それが分かっているのだろうか。
世界を見ろ!甘えすぎだろう!
話が持論に飛んだ(笑)
話を前に戻し、日本の敗戦直後、
インドネシア人が日本軍を襲う図式を
当時、そのことに直面し、
理不尽さに悩んだ残留日本兵の証言から紹介したい。
証言者は、独立戦争を生き残り、スラバヤにおいて、
従業員数8000人(計6社)を雇い、事業に成功する、
石井正治氏である。
(石井正治の証言)
日本は、戦争に負けた。
インドネシア人も戦勝国の人間として扱われるので、
彼らに対し、武器の使用は厳禁されていた。
彼らは、日本人が手出しをできないことを知っており、
それをいいことにして、日本兵から兵器を略奪せんと企てるのだ。
一方、我々は、インドネシア人に兵器を渡すような事があれば、
本人は勿論、その所属長をも処刑されると厳命を受けている。
こんな矛盾した話はないが、やはり勝てば官軍、無法も法なのだ。
…….
この証言をどう読むか。
これには、書かれていないこともある。
終戦直後、連合軍側もすぐに各国の事情に対応できない。
インドネシアの治安の維持に困った連合軍側は、
暫くは、日本軍に武器の所有を認め(武装解除を遅らし)、
それをもって、インドネシアの治安維持の役目を負わせたのだ。
要するに、
武器を持つことを許すが、それを使うことを許さないのだ。
襲われたら、逃げろ….
武器を使うな….
武器を奪われたら、全員処刑だ….
武器を持ったまま、逃げ続けろ….
ということになる。
石井正治は、これを矛盾している、と言っているのだ。
さて、11名の日本兵....
小隊が駐留したCandikesumaから
殺されたSari kuing Tulung Agunまでは5キロある。
バリ人に襲われたが、抵抗することが禁じられている。
武器を持って、ただ逃げるだけ....
山の方に逃げて、川のほとりで休んでいるところを
襲われて、殺されたのではなかろうか。
もしかしたら、一発も撃つことなく....
さて、今日のブログの前段で、
インドネシア人に殺されたことを責めることはできない。
と書いた。
「ご遺族の方にとっては、とんでもないことだ」
「他人事で無責任すぎる」
と思う人がいるかも知れない。
が、私は、あえて確信げに否定して書いた。
日本人にとって終戦であっても、
インドネシア人にとっては、これから突入する戦争であり、
やはり、しようがないことと思うのだ。
多分、私だけでない。
ご遺族の方それに戦友もそう思っているはずだ。
それが証拠の11名の日本兵のお墓である。
お墓の建之には、バリ人も協力したことが刻まれている。
24名の戦友のお詣りもバリ人がお世話している。
さらに、次の写真を見て欲しい。
2006年1月7日と刻まれている。
割れ門のある、お寺として、お墓全体を祀ったのは、
つい最近(9年前)である。
日本人が誰も訪れなくなっても、バリ人だけで、
護りとおしているのである。
この日本兵11名のお墓…..
バリ人; 殺したことは事実、申し訳なかった、許して欲しい。
日本人; しようがなかったものね、いいよ。
と、語っているように思えるのだ。
この地で尊い命を落とされた11名の方々、
私たちは、あなた方のことを語り継いでゆきます。
どうぞ安らかにお眠りください。