シャンティーの結婚式に出席したついでに、
シンガラジャの町にある「独立闘争記念碑」に寄って来た。
記念碑の正面に、Monumen Perjuangan Tri Yudha Sakti とある。
この意味がよく分からない。
が、闘争の記念碑であることは、間違いない。
3人の兵士が立っている。
中央は、I Gusiti Putu Wisnu (多分、シンガラジャ出身)である。
ここでは、Wisnu の階級を Letkol としている。
letkol とは、Letnan Kolonel の略で、日本の階級でいえば中佐である。
Wisnuは、独立戦争当時は、Mayor=少佐であった。
日本もそうであるが、戦後に一階級昇進するのであろう。
Wisnu少佐は、ングラライ軍にあって、
ングラライが将軍であれば、副将軍の地位にあった。
正確に言えば、
「小スンダ人民闘争協議会」の「渉外担当参謀長」であった。
そんな彼、その立居姿を見て欲しい。
実に凛々しい。
実物もそうであったらしい。
Pindha が証言する、そんな逸話を紹介したい。
(Pindha証言)
私がングラライ中佐とお会いした時、隣にはWisnu 少佐がいた。
二人は、いつも一緒である。
二者一体の如く、離れたことがない。
二人は、未だかって意見の相違という問題を起こしたことがない。
二人が一緒なのは、最近のことではない。
1937年のオランダ時代から日本の時代を経て、
そして今の闘争の時代もずーと二人は一緒に行動してきた。
親友と言うだけではない、お互いが尊敬し合っているように見受けた。
このような二人であったが、肉体的には随分と違った。
ングラライ中佐は、154cmしかなく小さく、
Wisnu少佐は、172cm、体重70kgと大きかった。
ングラライ中佐は童顔であったが、
Wisnu少佐は、色も白く、その口ひげはクラークゲーブルのようであった。
彼は、スラバヤでオランダ軍将校として日本軍に捕まったことがある。
その時、彼は日本兵から半死半生になるまで殴られた。
理由は、彼がオランダ人との合いの子(混血)に見られたからだ。
友人が、慌てて間に入り、彼はバリ人であって、オランダ人ではない。
と、説明し、その証明を見せて、やっと解放されたことがある。
それほどに、凛々しい顔つきなので、
どこに行っても娘さんたちの争奪の種になっていた。
ングラライ中佐は、上品で礼儀正しく、常に下の者を可愛がった。
また、ングラライ中佐の指導力は素晴らしく、
彼に会った者は、ことごとく彼から愛され可愛がられているという感じを抱いた。
それに比べ、Wisnu少佐であるが、
軍人としての義務を遂行するための規律に厳しく、
下の者は、ングラライ中佐よりもWisnu少佐の方を怖がった。
オランダ軍もWisnu少佐を恐れていた。
ングラライ中佐ならば、言うことを聞いてくれるかも知れない、
という交渉の余地をもったが、
相手がWisnu少佐であれば、なんの話し合いもできない、
と、交渉の余地すらないと捉えていた。
...........
そんなWisnu少佐、
ングラライ軍の長征には、最後までングラライと行動を共にした。
が、マルガラナの玉砕時の最後の96名の中には、入っていない。
何故なら、マルガラナに向かう前のブレレン県で、
ングラライ軍は解散したからである。
ブレレン県での解散であったので、
そこから近いシンガラジャ近辺の出身者は、全て故郷に戻った。
Wisnuも泣き泣き、ングラライと別れたのだ。
と言う訳で、Wisnu少佐もそうであるが、
マルガラナで戦死した兵の中には、ブレレン出身者がいない。
いや、一人だけいる.....
bung Canggu という兵士である。
日本人である。
彼はブレレン県出身と書かれているが、
ブレレン県から上陸して、バリ島に来たという意味にすぎない。
日本人の彼には、帰る田舎がなかったのだ。