若者がみなを呼びにいっている間、
持参したメモを読み直してみた。
広岡勇は、書いている。
林が駆け込んできて、
隊長の遺体が見つかったことを知らせてくれた。
そこは小銃隊が戦った東側の谷の縁に小さなあぜ道があった。
が、高い草に覆われて、且つ谷側に遺体がずり落ちていたため、
あぜ道からは見えなかった。
そこを通り過ぎた時、死臭に気づき発見できたのである。
そうだ、そのとおりだ。
あぜ道がある。
オレも先ほどそのあぜ道に立った。
が、この場所が見えなかったじゃないか。
あぜ道の方を見上げて写真をとった。
上の方に、かすかに空が見えている。
あそこから丘になっているのか。
市来は、あそこで戦った。
鉄砲で撃たれ即死した。
インドネシア兵が運ぼうとしたが、ずり落とした。
ずり落ちたまま、ここまで転がって来たのだ。
若者の報を受けたみながかけつけてくれた。
左から、この土地の持ち主、メスマンさん。
彼は、ここに降りて来るとすぐに周囲の草を抜き始めた。
自分の土地のお墓ということで、普段より手入れしているのだろう。
でないと、こういう「広場」が確保されない。
すぐに草茫々になるはずだ。
バリもそうだがジャワも同じだ。
地元民がよく管理してくれる。
次の体格の良い青年は、最初にバイクで案内してくれた若者。
そして、エヴィとカミさん。
次の背の高い青年が、後にバイクで案内してくれた若者。
で、右端の男は、みなが騒いでいるのでかけつけてくれた者。
彼のお父さんが、市来竜夫の死体をこの地に並び寝かせたとのこと。
その彼が、何度もオレに言う。
1月になると、手のない男がお詣りに来ていた。
但し、最近は来ていない。
手のない男......小野盛かもしれない。
太ってる男か。
そうだ、太っている。
小野盛に違いない。
小野盛は、隊長としての市来竜夫に真髄していた。
そうか、小野盛が、毎年お詣りに来ていたのだ。
やはり、日本人、律儀である。
そんな小野盛も去年の8月に亡くなっている。
確か、94歳だったと思う。
さて、この地が、
遺体が転げ落ちるほどの急斜面であることを写真で見せたい。
まずは、お墓のお詣りを終え、あぜ道まで登って来るエヴィ。
あぜ道のオレから見ると、ほとんど真下だ。
続いて、ようやくあぜ道まで登ってきたカミさん。
ずりおちないようにしっかりと前を行く若者に掴まっている。
あぜ道も少しづつ広くなり、と、部落の道路に出る。
ここがその出口。
出口を出ると、、
部落の人が何があったのかと珍しそうに集まっている。
本当は、こういう部落民に戦闘のことを聞きたい。
が、すでに日が暮れかかっている。
明るいうちに、kepanjeng を経て、Malang まで行きたい。
暗闇の運転は危険だ。
これ以上の情報収集をあきらめる。
村人用にバリからお土産を準備してきていた。
それらお土産は、全てメスマンさん(地主)にお渡しすることにした。
写真はメスマンさんの家。
メスマンさんと奥様。
メスマンさんは、言う。
手のない人(小野盛さんのこと)が来ると、
必ず家に寄って、この椅子に腰かけたのですよ。
ああ、小野盛さんにお会いしたかったなあ~
1年遅かった。
さて、市来竜夫のお墓の場所は、
Ardjasari Sumber-putih であった。
まさに、広岡勇が記述したとおりの場所である。