沙季さんは、2月16日の昼の便で日本に帰る。
今日、2月15日の日曜日は、調査お休み。
きっと、エヴィと二人でお年頃の娘さんに戻るのだろう。
2月16日の午前中は、日本に帰るための準備(お土産を買うのかな)。
てなことで、昨日が残留日本兵調査の最終日であった。
16、ライ・スサンディ さん 取材
最終日の取材は、
独立戦争を戦った元バリ兵との懇談から始まった。
そのバリ兵の名は、ライ・スサンディさん、85歳。
ライさんのご出身は、プナルンガン村。
残留日本兵のトップを切って、バリ軍になった、
松井と荒木が逃げ込んだのが、そのプナルンガン村。
そこで居候した家が、なんとライさんの家だったのだ。
ライさんは、その頃16歳。
バリ人としては、充分な大人です。
そういう時期に、松井と荒木と一つ屋根の下で過ごしたのだから、
松井と荒木に関する話、ライさんの語るものに勝るものはない。
左がライさん、背筋が伸び矍鑠としている。
独立戦争中のライさん、
あちこちに散らばるバリ軍の間に情報を伝達する役、
言ってみれば、情報将校、斥候、スパイ....の役で常に単独行動だったとのこと。
勿論、松井と荒木はライさんの役目を知っている。
が、松井と荒木の傍にいる兵は、ライさんの存在すら知らない。
敵を欺くときは、味方から欺く.....
オランダ軍の中にも、バリ軍の中にも、
数知れないほどのスパイがいたからと言う。
独立戦争を戦った英雄の証である帽子を被るライさん。
ライさんの話を聞きながら、
松井と荒木の行動につながった部分があるが、
あらたに生じた疑問もある。
疑問は次のブログに書き、今後の解明課題にしたい。
また取材に来ることを了解してくれたライさんとのお別れ、
には、ニョーマン・ブレレンの奥様のモリタさんも加わってくれた。
17、ワジャのお墓を訪れる
ライさんの取材を終え、
調査最終となる、ワジャの墓に向かう。
プラガの地は遠い、運転するオレ、少々疲れ気味。
沙季さんから「寝ちゃダメだよ」と、ミントの飴玉が.....
なんとか、プラガの街まで気力が持った。
これが、ワジャの墓の全景。
沙季さんから、ワジャの墓の現在までを
時系列に話してくれるようにと録音器を目の前に置かれた。
昨日のことも忘れる、今のオレ。
思い出して話すのに自身がないので後日にしてくれとお断りする。
その後日.....の機会がもうない。
ここで、書くのでお許し願いたく。
1、バリ兵が書いた記録の中に、次を見つける。
日本兵ワジャは、Semanik村の近くの川で戦死する。
その場所には、村人が信仰する「赤い岩」があった。
2、2014年7月12日、
その「赤い岩」を見つけに、Semanik 村に行く。
最初に聞き込んだ家が「ルジャさんの家」で、運よく情報を得る。
ルジャさんの家のお爺さんがその場所に案内してくれる。
同時に、その場所から死体を運び出して、
町の近くで埋葬し、今はお墓がある、との情報を得る。
3、その日に、すぐ「お墓」を見に行く。
お墓は藪の中で、外からはすぐに見つけられない状態であった。
なんとか、お墓を整備したいと、ルジャさんに、
「費用は私が負担するので整備の認可をとって欲しい」と依頼する。
4、11月19日、ルジャさんより「整備の認可が下りた」の報あり。
5、11月27日、ワジャの墓の前に、村長さん、バンジャールの長、
など関係者が集まり、整備方法を検討する。
お墓を整備できる日は、当地の慣習で11月30日だけという。
その日一日で整備できなければ、いつ整備再開できるか解らぬという。
で、とにかく、11月30日一日で整備作業を終える。
ということで整備が決定する。
6、11月30日、朝の4時から整備開始、夜遅く、整備を完了する。
ということです。
沙季さん、これでよろしいでしょうか。
お墓に書かれた「日本人(バリ語)」を確認する沙季さん。
さて、沙季さん、
沙季さんは、現代の若者らしい疑問として、ライさんに
「日本軍統治時代、日本軍をどう見ていましたか」と聞きましたよね。
ライさんの次の第一声は、多分に沙季さんの予期していたものと思います。
「食糧調達など、それはそれは厳しかった」
「オランダ時代が良かったと周囲の全員が話していた」
が、そのあとに続く次の第二声は、
年配者である私の思っていた通りでした。
「しかし、それは戦争だから、しようがないことと理解していました」
「それに、日本は、バリの若者に戦い方を教えてくれた」
沙季さん、
私は、ライさんのいう「戦争だからしようがない」という話を
正常な人間として、普通の感情をもって理解できるのです。
戦争は異常な人間を作ります。
人間を人間として扱われない状況を産み出します。
従軍慰安婦のことが世間で騒がれています。
それを言うならば「ロウムシャ」がもっと過酷です。
戦後なのに続けられた「シベリア抑留」も、過酷です。
ちょっと遡れば、白人の有色人種の土地の植民地化があります。
もっと、遡れば、カリブ海の島々の島民のみな殺しがあります。
アラブとイスラエルの長い土地の従属戦争もあります。
戦争というものの悲惨さをどこかの時点で区切るのは不可能です。
すべてが歴史の中の流れの中にあります。
言える事は、戦争というものを多方面に知り、全てを正確に捉えて、
不戦の誓いという認識に結び付けなければなりません。
たとえば、大東亜戦争の際の従軍慰安婦.....
というような「ひとつの事象」にとらわれず、
戦争というものを歴史的に多角的に捉えて、
学ぶことが必要だということです。
前に進むには、過去を忘れることも大事です。
過去を忘れて水に流す潔さが大切です。
いつまでも引きずることこそ次の戦争を生むことなりかねません。
その事実は、歴史上いっぱいあります。
過去にこだわりすぎる中国や韓国。
比較してインドネシアは、
それらを忘れることができる「大人の国」です。