権力に無関心な民衆を書きました。
追加して書くことがあります。
1478年、マヒャパヒト王国の王や僧侶や貴族が
ジャワからバリに亡命してきてゲルゲル王国を建国した時のことです。
バリ人にとってジャワ人は他島の人です。
そんなよそ者が来ても争いもなく直ぐに王国を作れております。
バリ人は王国の建国に抵抗しなかったのです。
抵抗しなかった理由は、次の3つがあったからと思うのです。
1、マジャパヒト王国はおなじヒンドゥー教であった。
2、1342年、すでにマジャパヒト王国の影響を受けていた。
3、ヒンドゥー教の教えの中にカースト制度があった。
この中のカースト制度について考えてみましょう。
カースト制度では、僧侶・王・貴族をトリワンサと称し別格視しています。
トリワンサでないスードラ(平民:人口の90%)は、
トリワンサを尊敬するように教えられるのがバリヒンドゥー教です。
で、ジャワ島からのトリワンサらの亡命を消極的ながらも迎え入れ、
新しい王国の建国を受け入れたのではないでしょうか。
このことを別の角度から表現すると......
トリワンサを別格視する平民(人口にして90%)が、
「あの人たちは別だから」と、王国周辺の人に無関心だった、
であったことも想像されるのです。
理由は違うものの、ここにも「無関心」の要因がありそうです。
さて、話題を変えます。
ングラライは、マルガの地でオランダ軍に囲まれ、
死を覚悟して全員突撃を命じた時、
「ププタン」「ププタン」と叫びながら敵の中に突入します。
で、マルガ合戦のことを「ププタン・マルガラナ」と呼ばれます。
ププタンとは何か。
「終焉」を意味するバリ語です。
日本語では、玉砕とか集団自決と約されます。
デンパサールには、ププタン広場があり、
クルンクンには、ププタン記念塔があります。
バリの歴史を語る時には、外してはならない言葉です。
ちょっと「ププタン」に寄り道したく思います。
とうことで、
バリの各王国がオランダ軍に抵抗して戦った「バリ戦争」です。
この中で王国のププタンが繰り返されました。
バリ戦争を駆け足で書きながら、ププタンを拾ってみます。
60年続くバリ戦争の始まりは、1846年のブレレン王国からでした。
当時のブレレン国王は、グスティ・クトット・ジェランティでした。
その国王グスティ・クトット・ジェランティですが、
ちょっと、分からないところがあります。
ルノンのププタン写真展では、次の二人とも
ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティと表示しております。
二つには、説明文がついており、
左は、ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティとだけ書いております。
右は、ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティと書き、
ブレレン県の王、Gesti Ketut Jelantik は、オランダ領東インド政府によって、
1872年西スマトラのパダンに追放された、と添え書きがしてあります。
が、これから書くブレレン王は、カランガッサムで戦死するのです。
二人は、同一人物なのか別人物なのか。
それとも記述にミスがあるのか。
よくわかりません。
が、いずれにしても二人とも精悍な風貌をしております。
そして、風貌どおりの戦いをするのです。
長くなるので、またまた箇条書きで飛ばします。
1、1846年6月、オランダ軍がブレレン国に上陸した。
2、その時のオランダ軍の戦力は、フリゲート2艦、蒸気艦4艦、スクーナー12隻、
小型船40、兵力は1700人、うちヨーロッパ人兵士は400人であった。
3、オランダ軍は、上陸後、シガラジャ宮殿を破壊すると威嚇し、ブレレン国はそれを受け入れ、
オランダの駐屯を認めた。
4、が、オランダ軍の主力がジャワに戻ると、ブレレン王は約束を反故し、駐屯許可を拒絶した。
5、1848年5月、怒ったオランダ軍がオランダ人、ジャワ島人、マドゥラ族、
アフリカのガーナ人の構成の、兵力2400人で再上陸を試みた。
6、が、準備をしていたブレレン王は、兵力16000人、1500丁の銃を準備し迎え討った。
7、オランダ軍は200人の人的損害を蒙り軍艦に避難した。
8、1849年、オランダ軍は兵力を増強し、軍艦100隻、8000人の兵力で再度攻めた。
9、ブレレン国は兵力33000人でこれを迎え討ったが、叶わず、
1000人の人的被害を蒙り、敗退した。
10、ブレレン王とブレレン軍は同盟国であったカランガッサム王国に逃亡を試みた。
その時、ブレレン王妃と多くの貴族がププタンで集団自決した。
バリ戦争における、
最初のププタンであった。