追加すべき工藤栄の日本軍離隊理由は、
工藤栄がオランダ軍に殺された時の状況に隠されている。
殺された状況を知っているのは、
第3警備隊水警科長の月森省三大尉である。
月森省三は、昭和19年4月、第3警備隊の新任少尉としてバリ島に赴任した。
以後、ジャワ島への出向を命ぜられ、終戦はジャワ島のスラバヤで迎えた。
が、終戦処理のため再度バリ島への復帰を命ぜられ、バリ島に戻っている。
以下は、バリ島に戻った月森氏の記述である。
バリ島に復帰したが、もはや一年前の生彩はなかった。
かっての精兵も一介の市井人になって、
毛糸編みや漁具の手入れに時間を費やしていた。
号令一下、規律正しく行動する軍隊の規範はそこにはなかった。
軍規が根底から覆され、下克上の呈すらあった。
私は、兵員を県人別に分けた。
共通する郷土愛で団結を取り戻す為であった。
下克上はウソのように止み、団結を取り戻せた。
団結した兵員を使っての役目は、
バリ島ブノア港における進駐軍との渉外折衝であった。
渉外折衝と言えば聞こえはよいが、
内実は、日本軍をして進駐軍の貨物揚陸部隊を編成し、
進駐軍の要求に沿いながら使役を行うことであった。
要するに進駐軍(オランダ軍)の小間使いであった。
使役は厳しく、それは正しく戦争であった。
先ず最初にブノア港に来たのは、イギリスの巡洋艦であった。
私は、艦長室に呼ばれた。
バリ島の現状につき質問された。
態度は紳士的であった。
2回目に来たのは、オランダの駆逐艦であった。
英国船と違い、最初から攻撃的な戦闘態度であった。
質問と言うより、取調べに近かった。
ある日、オランダ軍港湾司令官のウオルフ少佐に呼ばれた。
日本海軍の舟艇と兵員でサヌール沖からサヌール海岸に貨物を揚陸して欲しい。
との依頼であった。
使役には協力できるが、直接協力は捕虜のジュネーブ協定に違反する。
私は、同意しなかった。
が、その夜、オランダ軍は、私の知らないうちに、
日本海軍の舟艇と日本兵員を使い、貨物揚陸をさせたのである。
無理な揚陸作業だったので、
洋上で舟艇が転覆し、白石兵曹が事故死した。
オランダ軍の横暴さには腹が立った。
喪に服するという理由で、兵員に三日間の作業放棄をさせた。
オランダ軍から威嚇射撃を受けたが遂行した。
それから10日、その怒りもまだ覚めやらぬ頃であった。
デンパサール所属の工藤兵曹の遺体が、
全武装のオランダ兵によって運ばれて来たのだ。
検死のためということであった。
頚部を鈍器で半切断されていた。
我々の全く知らないうちにインドネシアとオランダの間に戦闘があったようだ。
工藤兵曹もまた白石兵曹と並べてブノア海岸に埋葬した。
この月森証言を読み取りながら、
工藤栄周辺の状況分析をしてみたい。
あくまでも想定として読んで欲しい。
デンパサール所属…….
同じ第3警備隊であっても科が違うと、どこでどのような任務を行っているか
行動が掴めないという意味の「デンパサール所属」の記述である。
それが証拠に、月森氏は昭和58年4月、
工藤栄の長兄の工藤勝宛の手紙に、次のように書いている。
実は、栄氏は私と同じ第3警備隊でありながら、
陸警隊(デンパサール市)に所属し、ブノア港より遠隔地であり、
お顔を覚えてはいましたが、お名前の方は知りませんでした。
ブノア海岸に埋めた……
月森氏が埋めたのは、タンジュンブノアである。
月森氏のブノア海岸の記述は、タンジュンブノアのことである。
月森氏は、タンジュンブノアを拠点にしていたのであろう。
全武装のオランダ兵に運び込まれた……
殺された場所の想定をしたい。
タンジュンブノアであれば、月森もわかるはずだ。
先の手紙にもブノア港より遠隔地と記述している。
とはいえ、運び込まれたのであるから、そんなに遠くではない。
殺された場所は、ジンバランかデンパサール空港近辺ではなかろうか。
検死だけであれば、月森を呼べば足りる。
何故に、全武装させた兵隊に月森のところまで運ばせてきたのか。
地元民への誇示と日本軍への見せしめであったのだろう。
もしかすると、頚部の殺傷を隠さずに行進したのではなかろうか。
タバナンの地で独立義勇軍に加わった日本人(曽根)を見せしめとして、
民衆の目前でトラックで引き回して殺したオランダ軍である。
その程度のことはやりかねない。
下克上の呈すらあった…
終戦直後の日本軍の混乱ぶりを書いている。
各自が勝手に行動し、誰がどこで何をしているか、
などの把握ができない状況であったのだろう。
工藤栄の行動を追うのは難しいということだ。
野辺の送りから10日もたたないうちに…
オランダ軍がブノア港に来たのは、1946年2月22日である。
状況からして、工藤栄が殺されたのは1946年3月半ばと想定される。
頭部を鈍器で半切断されていた…
通常の戦闘ではなかったように思える。
寝込みを襲われたのでは、なかろうか。
であれば、オランダ軍に内通するスパイの存在が浮かび上がる。
インドネシアとオランダとの間で戦闘があったようだ…..
それを月森は、「我々が知らないうちに」と表現を加えている。
近くの月森も知らなかったということは、
隠れた地下組織で活動していた。
その組織は、できたばかりで、まだ小さかった。
ということだったのではなかろうか。
オランダは最初から攻撃的であった…
日本人のみならず、オランダ軍はバリ人にも攻撃的であった。
後々、工藤栄の慰霊碑を建てることになる、
ブノア村長のケペルグ氏もそのことを家族に語っている。
このオランダ軍の横暴さが
工藤栄をバリの民衆寄りに駆り立てた一因になった、
ということもあったのではなかろうか。
以上のことから、
私は工藤栄の日本軍離隊を少々特別に捉えている。
多くの残留日本兵は、
戦友と話し合った上で日本軍を離隊している。
しかし、工藤栄の場合は相談すべき戦友が近くにいなかった。
自分ひとりの決断で、抗オランダ地下組織に入った。
また工藤の居たデンパサール(バドゥン)は、
その後も抗オランダ意識が育たなかった土地である。
後々もそうなのだから、当時は勿論に、
ほんに少人数の小さな地下組織だったに違いない。
そうした処に身を預けるという、
心もとなさを独りで吹っ切り、独りで身を投じたのだ。
他の残留日本兵以上に、
迷い苦しんだ末の決断であり、覚悟であったに違いない。
状況分析をまとめたい。
工藤栄は、芽生え始めた独立の気運に呼応し、
誰に相談するでもなく単独で日本軍を離隊し、
独立義勇軍の小さな地下組織に加わった矢先に、
スパイに通報され、寝込みを襲われ、
拳銃の音をさせるのもはばかれる状況下、
銃剣で首を突かれた。
死を覚悟しての決断であったにしても余りにもその死が早かった。
悔しかったことだろう。
工藤栄の無念が思いやられてならない。
が、救いがある。
タンジュンブノアの地に慰霊碑が建てられ、
地元民から神として崇められている。
今日も地元民のおまいりが続いている。
天におわす工藤栄もそれを知っているに違いない。
次は、この慰霊碑建立に至る経緯を書きたい。