今朝のムラタサリ・ビーチ。
なにごとが起こったのか、大勢が集って浜の清掃をしています。
ワルンの経営者達による月曜日の定例清掃.....
時々にある、生徒達(小学生・中学生)による清掃......
たまにある、公営企業の従業員によるボランティア清掃.....
がありますが、大人たちがいっぱ集っての清掃は初めてみる光景です。
私の知らない人もいっぱいいます。
バンジャール(村落共同体)の集りではありません。
「どんな集まりなの」と聞いてみました。
「デサ(村)の集り」との返答が返ってきました。
バンジャール(村落共同体)の行事と
デサ(村)の行事とをどのように分けているのだろうか。
どのような連絡網があって、こうした共同作業ができるのだろうか。
ある人に聞いてみました。
「いくつのバンジャールが参加してるんですか」
と、しばらく考え込んでから「二つ」との答えが返ってきました。
二つなら、考え込むことなんかないじゃないか。
これはおかしいと、他の人に同じ質問をしてみました。
と、「6つのバンジャール」との答えでした。
余りにも数字が違いすぎる。
みんなみんな、いい加減なんです......と、
書きたいところですが、そうではないんです。
質問することがおかしいのです。
彼らにとっては、バンジャールとデサとの違いは、
身にしみこみすぎていて、考えたことがない事柄なんです。
昔からの創生区と生活区と行政区を意識しないで使い分けるバリ人。
ある程度のいい加減さがないとできないことです。
バリヒンドゥー教に沿って忠実に社会生活をしておきながら、
殆どの人がその経典である、トリヒタカラナを知らないバリ人。
理屈なんてどうでも良いとのいい加減さがあるからできるのです。
カレンダーに太陰暦と太陽暦とウク暦をミックスして使いこなすバリ人。
少しの間違いは許すいい加減さがないと出来ない芸当です。
両親の年齢を聞いても正確に応えれないバリ人。
知らなくてもいいことはいい加減にして追求しないということの証です。
今朝の清掃にもリーダーがいるようではありません。
それぞれが自由に、しかし一時間ほどでなんとなく終ってしまいました。
組織力、強制力がなくとも、なんとかなっているように見受けます。
お互いがチェックし合うことに、いい加減なところで妥協しているようです。
私の友人は、バリ人は6ヶ月ならお金がなくとも生きていける、と豪語します。
最初の3ヶ月は親類に食わせてもらい、
次の3ヶ月は村の人に食わせてもらえるんだそうです。
が、いずれ飽きられるので、そうなれば少し頑張れば良いのだそうです。
悪人がいても最後まで恨むことはせずに、ちょっと許すバリ人。
人間観にいい加減さがないとできない心の芸当です。
こうしたいい加減さのでどころは、
全てに100%がないこと、絶対というものがないことの、
受け入れ精神が根底にあるからです。
この受け入れ精神......ってのは、
人間にとってとても大切なことだと思います。
オレなんて、ちょっともありません。
バリ人から学ばなければいけません。
バリにはまる人.....がおります。
こうした、バリ人の受け入れの大きさが癒しにつながるのでしょう。
受け入れの大きさ......見方を変えれば、いい加減さ.....
日本人にとっては、時々、だらしなさに見えることがあります。