百姓がしたかった乙戸に独立戦争の最中に
ゴム液採取という、百姓まがいの経験があります。
乙戸は、よほど嬉しかったらしく、この時のことを
楽しく語っております。
長い文章ですが、全て転載します。
独立戦争中、合間をぬってゴム液採取をする。
オランダ軍の第一時侵攻が終った1948年4月頃から
第二次侵攻が始まる1948年12月までの半年間は、
比較的平穏な日々が続いた。
当時の民兵は、前線に出ているときは粗食ながらも一日2食支給された。
が、後方に退いた場合は食料さえも支給されなかった。
手弁当で独立戦争を戦った訳である。
食料が支給されなければ、生活のために何かをしなければならなかった。
古関正義、成田源四郎、乙戸昇の3人は、
大隊長ランラン・ブアナ大尉に申し出て、休暇を貰い、
ゴム液採取の仕事をすることにした。
当時、残留日本兵の中で羽振りの良かった、
鈴木五子郎兄(1980年5月逝去)がゴム園を所有していた。
そこをゴム液採取に使わせてもらい、
安値ではあるが、マレー半島とのバーター密貿易の
仲買人に売ることで、生活費を稼ごうとしたのである。
飯炊き婆さんとゴム液採取の経験がある、
イスマイルという名の村民を雇用し、
大隊本部から1.5キロ離れた畠の中の荒ら屋に住み込んだ。
床板もない荒れ放題の廃屋であったが、
とりあえずの応急処置で住めるようにし、
約半月分の米だけを準備した。
荒れているとはいえ、ゴム林内は適当に明るく、
種々の動物が住んでいた。
藪には蛇が姿を覗かせ、朽木の下にはサソリが潜んでいた。
ゴム林と畠の境界線には、朝夕数十頭の野豚が出没し、
住民を襲うことさえあった。
付近の住民の話によると、
ゴム林の奥には虎が生息しているとの噂もあった。
事実、雨上がりの早朝、
我々の住む小屋の周辺に虎の足跡が残されていたこともあった。
ゴム液は風が吹いて梢が騒ぎ出すと出が悪くなる。
で、毎朝10時までの風が出る前に外皮を切り終わらねばならない。
行動的な古関は販売及び対外的な仕事、
イスマイルと成田と乙戸が、ゴム液採取と担当を決めた。
採取班の3名は、夜が明ける前の暗い内に小屋を出た。
熱帯地域とはいえ、朝の冷気は気持が良かった。
イスマイルを先頭に、ねじり鉢巻の成田、乙戸の順である。
共に空瓶を天秤棒で前後に担ぎ、
一列になって畠の中の小路を裸足でひたひたと歩いた。
程なく先頭を行くイスマイルが、作業ナイフの柄で調子をとりながら、
空缶をかんかん叩き出した。
「何でそんなことをするんだ」と、乙戸が声をかけた。
「虎除けのためだ」という。
なるほど、言われてみたらそのとおりである。
我々3名、イスマイルに合わせて空缶を打ち鳴らした。
小屋を出てから30分たらず、ゴム林の丘をいくつか上り下りして、
我々のゴム林に着いた。
ゴム液採取を長い間行わずに休ませていた樹は、
再度切り始めても当初ゴム液はあまり出ない。
しかし、前日の切り口に従って、
毎日外皮を約2ミリ厚にそぎ落としてゆくと、
染み出してくるゴム液量は日に日に増してゆく。
そして、一週間切り続けると液量は大体最大限に達する。
爾後3ヶ月くらい切り続けた後、その樹を休ませる。
なお、外皮が切りとられて露出した患部には、
コールタール液を塗布して保護すると、
後日再び外皮が形成され、再度のゴム液採取が可能となる。
さて、イスマイルはゴム液採取のプロだけあって、
午前10時ごろには200本のゴムの樹を切り、一服煙草をつけていた。
成田も青森の農家の出身で万事要領の飲み込みも早く、
100本ほどの樹を切っていたが、乙戸はやっと50本であった。
午後1時ごろ小屋に戻った。
休む間もなくゴム液を木箱に移し、イスマイルは明礬液を作って、
ゴム液中に流し込み撹拌した。
ほどなくゴム液は柔らかく固まり、白い豆腐状のものができた。
2時ごろ一応作業が終った。
初日の収穫は僅かであったが、
予定したゴムができたことで満足し、疲れも気にならなかった。
さあ!「マンデーだ」
身の汚れと共に疲れを水で洗い流すべく、パンツ一枚になろうと、
ズボンを脱いだ途端、小指大の真っ黒い固まりが7,8個、
ぽろぽろとこぼれ落ちた。
イスマイルが「蛭だよ」と、平然と言った。
一瞬悪寒が背筋を走って、乙戸は立ちすくんだ。
それは人間の血を十二分に吸いすぎて、
動くこともできなくなっていた蛭の固まりであった。
蛭はズボンの裾を縄や紐できっちり結んだり、
軍隊用の脚絆を巻いても防げなかった。
血を吸う前の蛭は糸のように細く、
少しの隙間があれば這い上がってきた。
しかもいったん蛭が吸った後は、その翌日も翌々日も、
同じ箇所に吸い付いて血を吸うのである。
おそらく血の匂いで前日の跡が判るのであろう。
そのために一旦蛭に吸われた跡は乾く暇もなく潰瘍化したが、
それにつける薬もなく、ゴム液採取中は潰瘍が治らなかった。
後日、薄明かりを帯びた朝、ゴム林内に入ってみた。
ゴム林に入る前の畠の小路は乾燥していて蛭は見あたらなかった。
しかし、一歩ゴム林内に入ると、小路は湿気を帯びてきた。
身体を屈めて薄明かりの小路に顔を近づけると、
いるわいるわ、体長3センチ太さ2ミリにも満たぬ蛭が、
数百、いや数千、いっせいに棒立ちになり、
風にそよいでいるかのように、ゆらゆら左右にゆれていた。
小路いっぱいに林立して揺らぐ蛭を避けて通れる状態ではない。
観念して、蛭を踏みつけて前に進むと、
それまで地面に伏していた2メートル先の蛭が、
一斉に棒立ちになってゆらゆら揺れ動きだした。
それは地響きによって獲物の通過を感知し、
直ちに取り付ける体勢を整えているように感ぜられ戦慄を覚えた。
こんなゴム液採取作業であったが、
万事に作業の遅い乙戸は、いつも帰りが一番遅れた。
20~30kgのゴム液を二缶に分け、天秤棒の前後に吊るし、
濡れた坂道に足をとられて転倒し、一日の収穫を失ったのも乙戸であった。
ゴム林の至るところに種々の猿も群棲していた。
その猿に襲われたのも乙戸であった。
其の日も乙戸は作業に遅れて独り帰路を急いでいた。
足元に気をとられ、行く手の路上に猿の群れがいることに気づかなかった。
気づいた時には、5~6メートルの距離まで近づいていた。
6~7匹の成猿が円陣の一角をなし、襲撃体勢をとりはじめた。
「危ない」と乙戸は思った。
急激な動作を避け、猿共の動きを注視しながら、ゴム液缶を路上に降し、
天秤棒のみ静かに抜き取って、じりじりと後退した。
当初は、前進してきた猿共も敵意がないと思ったためか、
途中で前進を止め、それ以上接近して来なかった。
危機は脱したと感じ、ゴム缶を残したまま猿群を後にして退避した。
さて、こんな風にして採取した我々のゴム液は、
不純物が少ないということで、
値段をたたかれたが仲買人には喜ばれて引取られた。
古関はその代金で食料を主とした生活必需品を購入してきた。
しかし、余分なものは勿論、
生活必需品も最少限に切りつめなければならぬほど、収入は少なかった。
肉、魚などは買う余裕がなく、古関が買ってくる唯一の野菜は、
毎回決まって茄子であった。
他の野菜を買うだけの金がない、というのが古関の返事であった。
いつしか飯炊き婆さんもゴム液採取作業に加わり4名になった。
イスマイルも飯炊き婆さんも我々と同じ物を食べ、
毎日の生活も我々と同じであった。
違うといえば、イスマイルと飯炊き婆さんには、
僅かながらも給料が支払われたことである。
我々3名は、一銭とて分け合う余裕がなかった。
考えようによっては、イスマイルと婆さんのために、
我々が働いているようなものであった。