乙戸昇は大正7年、東京西多摩郡五日市町に生まれた。
父島蔵、母スズの四男・四女の3男と生まれている。
家の跡継ぎは長兄の精一だったことから、
乙戸は幼少の頃から自立を志した。
昭和8年、地元の尋常小学校を卒業すると、
東京馬込にある海軍少将の佐野常羽根伯爵家に、
書生として住み込み、
九段中学校を卒業し、早稲田大学専門部に入学、
昭和16年に卒業している。
乙戸の学生時代の友人は、
「大変に字の上手な几帳面な人だった」と言っている。
乙戸の尋常小学校の一年から6年までの全ての科目が、
「甲」であった。
今ならオール五ということになる。
早稲田を卒業後、いずれは召集令状がくると判断して
昭島市の昭和飛行機工業に入り、親元から通っている。
後年、乙戸は「せめてもの親孝行と思い家から通った」
と言っている。
大東亜戦争終戦
乙戸に召集令状が届いたのは、1943年で、
神宮外苑で「出陣学徒壮行会」が行われた年であった。
乙戸は近衛三連隊に入隊し、その年の8月、
門司から輸送船「氷川丸」に乗り、
10月にインドネシアに入った。
で、ジャワ島の予備士官学校に学んだ以後、
少尉としてスマトラで任務についた。
終戦の知らせが、
正式に日本軍指令部から乙戸の耳に入ったのは、
終戦の四日後の8月19日のことである。
乙戸はその時の心境を
「無気力感が全身を支配した」といっている。
終戦後乙戸の部隊は、連合軍下で英印軍の貨物船から
燃料缶を貨車に積み込む使役や警備をやらされている。
さぞかし屈辱的であったことと推測される。
1946年10月、カバンジャで警備していた乙戸は、
同じ階級の古関正義、原武義、本間森蔵と、
夜毎一室に集ると声をひそめ熱い談義をくりかえした。
「オレはインドネシアに残るぞ」
「すでに帰国の準備をしている部隊もあるのに、なぜ残るのか」
「引揚船に乗っても日本に無事に帰れるかどうかわからない」
「どうせ離島で死ぬまでこき使われるか、
船が沈められ全員殺されるのかが関の山だ」
「日本は新型爆弾(原爆)でやられて大変らしい」
「食うものもないらしい、それならインドネシアに残り、
日本の復興を待った方がいい」
「乙戸、お前は黙っているがどうするのだ」
乙戸はしばらく考えると、
「俺はできればインドネシアに残り田舎で百姓をしたい」
その後、日本に帰った本間は、
その時のことを
乙戸の突拍子もない言葉におどろいた。
確かに我々の宿舎にもインドネシア側から独立軍への誘いがあった。
が、百姓になりたいという乙戸の気持はわからなかった。
彼は頭のいい男です。戦争はこりごりだったのでしょう。
自由、それが乙戸の本音だったのかも知れません。
と、語っている。
日本軍を離隊する
そうした彼らが日本軍を離隊した時の情況であるが、
乙戸昇、古関正義、原武義、本間森蔵の4人の将校は、
腰に軍刀を下げ、軍に未登録のトラックで、
プラスタギーにある独立軍へと向かった。
(写真は左が乙戸、その右が古関正義)
途中、インドネシア軍警備兵に何度か停止された。
が、窓越しに「ムルデカ(独立)、ムルデカ」と叫ぶと、
手を振って通過させてくれた。
ところが本間は、
持って出たはずの軍票を忘れてしまっていた。
独立軍に入るには手土産が必要だった。
軍票は、その手土産として必要だったのだ。
しようがないので、独立軍に行き、
憲兵隊長と交渉したが、4人とも兵舎内に軟禁された。
実は、本間森蔵は、
3人を独立軍に届けた後、原隊に戻る予定だった。
だが、それはできず、車は没収され、
4人ともインドネシア軍に入ることになった。
乙戸のいた独立軍の戦闘とは、どんなものだったのだろうか。
これについては、乙戸本人が次のように語っている。
「少数の銃、竹ヤリ、ナタが武器で、
戦うのには程遠い装備であった。
ですから、大声を出して敵の混乱をさそうものや、
夜中に急襲するゲリラ戦であった。
そして戦闘が終わると兵達はそれぞれに村に戻り、
休養し、生活資金をもって再び部隊に合流する。
我々も同様で、戦いがないと野菜を作り、
自動車修理工場を手伝い生計をたてた。
とくに武器の修理やインドネシア青年達を広場に集めての
軍事教育は重要な仕事であった。
今思えば悠長なものであった。」