残留日本兵の生涯を辿るとき、
日本軍時代の5年間があって、
インドネシア独立戦争の5年間があって、
激動の10年間であったと思われる。
が、その後のその倍の20年間も、
インドネシア人にもなりきれず、
日本からも見放された中で、
前にも増して激動の人生を送っている。
そこにも目を向けなければ、残留日本兵を語ったことにならない。
そういう意味で、戦争の実体験から離れたことも少々書きたい。
また、残留日本兵のことを調べるにつけ思うことがある。
それらの多くが、若くして人生哲学を持っているということである。
自分の今がなんのために在るかと考えた末、身を投じている。
そうした人生哲学を匂わせるものも書いてゆきたい。
この二つの目的で選んだのが、
これから書く立川庄三の証言である。
立川庄三は20歳の時に天皇と皇居を警護する近衛師団に入団している。
近衛師団は、優秀な人材を集めた最精鋭師団である。
立川庄三も若くして人生哲学を確立しているひとりであったに違いない。
立川庄三氏の手記「我が軌跡の青春譜」は、
日本軍時代から始まって死の直前までの45年間が書かれた長編である。
特に日本軍時代からの戦友である、
小島敏雄と早川清のことについて、
多くの紙面を割いている。
氏の手記を紹介する前に、
この戦友、二人について概略を述べておきたい。
まずは、早川清のことである。
早川は、独立戦争に参加後の1952年、
第一次帰国団で日本に帰国し、
日本では定年退職まで講談社編集部長の要職を務めている。
1980年には「忘却の青春」(教育出版センター)」、
1987年には「バダカロ・ゲリラ:インドネシア独立戦記」(東京文芸社)
の本も著している。
後日、早川は日本に療養に来る立川や小泉に対し、
それこそ戦友でなければできない濃密さで旧交を温めている。
次に、小泉敏雄である。
小泉は独立戦争後、インドネシアに進出してきた安宅産業とタイアップし、
木材伐採事業を行っていたが、安宅産業の倒産に会い一旦挫折した。
が、其の後奮起して独自に事業を成功させ、避暑地に別荘を持つまでになった。
昭和60年の元旦をその別荘で迎えようと戦友、立川庄三を誘った。
そして、元旦を迎えようとする、昭和59年12月31日20時30分、
立川庄三と往時の思い出を話した後の浴場でぽっくりと逝ってしまう。
続いて、立川庄三本人である。
余りにもあっけなく小泉敏雄が死んでしまったことに意気消沈した立川庄三は、
「故小泉敏雄兄に捧げるー我が軌跡の青春譜」を一気に書き上げ、
同年11月19日に、小泉敏雄を追うがごとく永眠する。
この時の立川について、乙戸昇(福祉友の会:編集子)は、
次のように書いている。
小泉敏雄が逝った翌1月1日、
国軍葬による故人の野辺送りを済ませた立川氏は、
1月13日、メダン市に移転して行った。
この移転を前に、体験記を記して貰いたいと、
私は立川氏に依頼した。
その体験記が私の許に送られてきたのは同年7月であった。
体験記の題名は、「我が軌跡の青春譜」であったが、
同封の同氏信には、“故小泉敏雄兄に捧げる”と記してあった。
立川氏の手記は、自製原稿用紙、16字x 26行、416字詰めで、
215ページに及ぶ長編であった。
手記は一字一字楷書で書かれ且達筆、
加えて文章も誠に立派なものであった。
その手記は“昭和60年5月5日起草”と添え書きされており、
私が同手記を入手したのは7月であった。
即ち、起稿から脱稿まで約2ヶ月ということになる。
病身の同氏がそのような手記を
2ヶ月で書き上げたということに私は驚かされた。
再起の望みがないことから、
全精力を傾けて書き上げたのであろうと思われた。
立川氏は手記を書き上げて4ヶ月後の同年11月19日永眠された。