先のブログで書いたように、
スバルジョの証言では、
日本人がいなくなった後、
スカルノ、ハッタ、スバルジョで、
独立宣言文の原案が作られ、
その後、独立準備委員会で、
その原案を発表した時、
スカルニからの反論があったとしている。
が、西嶋は、次のように
証言している。
日本人も居合わせた時、
最初に原案を出したのは、スカルニである。
次のような案であった。
ここにインドネシア人民は独立を宣言する。
現在のあらゆる政府機関は、
これを保持している外国より奪取しなければならない。
が、このスカルニ案に対し、
スカルノやハッタは訂正を求めた。
日本人列席者もスカルノやハッタの主張を支持した。
次のような理由からである。
日本軍は連合国より、現状を維持する義務を課せられている。
日本軍は敗戦直後で意気消沈しているが、まったく無傷である。
もしインドネシア人が武力で日本軍から権力を奪取するとなれば、
そうした日本軍との間で、武力抗争が起きる可能性がある。
しかるに「奪取」との過激な言葉を使うのはふさわしくない。
「移譲」との穏やかな表現にすべきである。
として訂正を求めたのである。
こうした白熱した議論の結果「移譲」の言葉を使うことで決着した。
と、西嶋は、草案には日本人の発言も影響していると述べている。
西嶋のこの証言が正しいのか、
スバルジョの証言の方が正しいのか。
今更どうでも良いことである。
であるならば、インドネシア人の方を採りたいと、ブログを仕上げた。
(上の写真説明)
何度か書き直された、スカルノ手書きの原案である。
原案が検討される段階で、相当の議論が戦わされたことが解る。
スバルジョ曰く、スカルノとハッタとの討論の中で書き直されたものか。
西嶋曰く、スカルノらとスカルニらとの討論で書き直されたものか定かではない。
さて、もう一度手書きの宣言文を見ていただきたい。
日付が17. 8, '05 と書かれている。
05 は、皇紀2605年の意味である。
本格的に連合軍が上陸して来る8月いっぱいまでは、
日本の暦を使用していたとする証である。
宣言文にまで日本統治の傷跡が残るという、
インドネシアにとっては、いまいましいことであろうが、
今となっては書き直すことができない。
インドネシアの学校教育では、'05 の意味を教えていない。
歴史の傷跡である。
(右の写真説明)
スカルノの走り書きの宣言文を
タイプしたタイプライターである。
後ろの銅像は、
宣言文をタイプしたSayuti Melik.氏。
アルファベット文字のあるタイプが
前田少将邸にないため、
前田邸の家政婦、三島サツキが
自動車を使って、
当時ジャカルタにまだ存在していた、
ドイツ海軍事務所から借りて来たもの。
現在、独立宣言文起草博物館となっている旧前田邸の展示品である。
いずれにしても、真夜中に急ぎ家政婦が自動車で向かっている。
前田が起きていて事態を見守っていたということだ。
だからこそ、即座にタイプライターを借りる指示を出せたのであろう。
ドイツ海軍事務所にしてもそうである。
夜中の訪問にもかかわらず、即座に対応してくれている。
それはそうであろう。
50人以上の人が前田邸につめかけているのである。
前田邸の周りは、夜中といえども誰も眠ることなく、
全ての人が固唾をのんで、ことの成り行きを見守っていたと思う。
想像するだけで、熱き状況が思い浮かぶ。