あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



ヌサマラ村の島村中尉の調査報告

ジャワ海軍のマルカディ大尉から残留の指示を受けた島村中尉隊....
を調査しに、ヌサマラ村に行って来ました。

ジェンブラナ県の Rambut Siwi 寺...
この寺は、バリ島からジャワ島に渡るために、
ギリマヌク港に至る途中にあって、道中の無事を祈る有名なお寺ですが、

そのRambut Siwi 寺を左に見て、右の田圃に入る道に行き、
それから約5キロ北上した行き止まりにある村がNusa Maraです。

そこに、こんな立派なモニュメントがありました。
まだ、ま新しいので、建て替えたのでしょう。
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村人にモニュメントの意義を聞いた処、
1、休息中にオランダ軍に襲われた。
2、襲われた場所は、ここよりもっと山に入った処であった。
3、モニュメントは、村の外れのこの位置に建てた。
とのことであった。
語られる史実どおりである。

が、戦死者はいなかったのか...の問いに、「いなかった」と言うし、
(Ngatimoという名のジャワ人兵士が戦死している筈)
ボスは日本人だった筈だが....の問いに、「知らない」と言うし、
それに戦いのあった期日であるが、1946年の4月下旬~5月上旬であるべきが、
モニュメントには、次のとおり、6月2日になっている。
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もっと、知りたい、詳しい人を紹介してくれ.....というと、
村人が口を揃えて言う人物がいた。
Gusti Agung Ketut Mendera である。
5キロ離れた、Desa Yeh Embang Kangin の
バンジャール Tibu Sambi に住んでいるとのこと。
会いに行って来た.....この人だ。
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現在、87歳、
シンガラジャの陸軍士官学校で日本人から教育を受けた....
独立戦争にも参加した、ベテランと呼ばれる退役軍人だ。
独立後は地域の学校の校長先生をしていたのとこと。
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彼曰く
1、Nusa Maraの戦いがあった時は、自分はまだシンガラジャにいた。
2、その後、郷里に帰って来て、独立軍に入ったので、詳しくは知らない。
3、日本人がいたこと、戦死者がいたこと、本から知るだけだ。
4、Nusa Mara でオランダ軍に駆逐された味方兵は、
  東に向けて散りじりに逃げたと聞いている。
5、その後、どうなったかは、知らない。

ということで、
島村中尉は、東に向けて逃げたものの、その後の消息は全く分からない。
どこかで殺されたのだろう。
M,Shimamura をバリ島で戦死した残留日本兵のひとりにカウントしたい。

6月2日という戦闘日が解せない理由は、明日のブログに書きたい。
# by yosaku60 | 2016-08-30 11:32 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

トニッ.....は、昔も今も可愛い

バリ島に住むことの値打ち....
オレにとって一番に上げるのが、マッサージ。
マッサージ嬢が美人で、テクニックが上手く、しかもお安い。
そうした中のひとり、トニッちゃん...!!
これが、5年前、23歳。
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これが、一年前。
手前がスリーちゃん、ひとりおいて、トニッ....!!
そしてコミン、その奥がオレ。
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つい先日、家に来てくれたトニッ....!!
現在28歳、少し、大人っぽくなったかも知れない。
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# by yosaku60 | 2016-08-29 12:22 | バリ島=マッサージ | Trackback | Comments(0)

島村中尉とは誰で?どうなったのか?

バリ島での独立戦争....
に援軍としてジャワ海軍隊がかけつけた話は何度も書いて来た。
ジャワ海軍隊で、バリ島に上陸を成功させたのが、マルカデ大尉。
マルカデ大尉についても、過去に書いて来た。

さて、そのマルカデ大尉だが、
残留日本兵を二人連れてジャワから来たらしい。

その内のひとりは、スラッマ曹長で、、
最後までングラライと共にし、現在マルガラナの英雄墓地で祀られている。

もうひとりが、島村中尉である。
M,Simamura と呼ばれ、バリ名が伝わっていない。

マルカデ大尉は、ングラライに会うためにムンドックマランに向かった。
しかし、ジェンブラナ県でも、戦闘があった。
で、その対応に、軍を分け、一分隊を島村中尉に託した。
島村中尉隊である。

が、隊は、ジェンブラナ県の Nusa Mara で休養している時に、
スパイに密告され、敵に襲われた。
島村中尉の消息もそこで消えている。

何があったのだろう。
今朝は、Nusa Mara に調査に出発します。
# by yosaku60 | 2016-08-28 08:27 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

トゥグ・アメルタユダ(モニュメントの名)

バリ島北岸にジャワ海軍部隊が上陸したのは、一度か、二度か?
それを確かめるために、Celukan Bawang の現地調査に行ったこと...

昨日のブログに書きました。
今日は、そのつづきです。

Celukan Bawang で、
ジャワ海軍部隊上陸のモニュメントを発見した後、
もうひとつ、モニュメントがあるかも知れないと、
しつこく現地調査をしていたところ...

「ある....」

との聞き込みをしたのです。
でも、海岸ではなく、山の方の、Desa Paras という処。
んで、行ってみました。
で、二度と来れないような路地に入り、山に向かったところで、
見つけたのが、これ!
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Tug Amerta Yuda という名のモニュメントとのこと。
管理しているのが、同じ敷地に住む、Hasanudinさん(写真)
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次は、Hasanudinさんが語ってくれた話。
1、私の父は、この地の有力者だった。
2、父を頼りに来た、3人の若者がいた。
3、Gusti Membe と Nadie と Jubad の3人だった。
4、3人は、インドネシア独立のために地下活動をしていた。
5、その3人の活動をオランダ軍に密告した村人がいた。
6、Madesitran という名の村人である。
7、ある日、オランダ軍が、どかどかと、この地に入って来た。
8、父が止めるのも聞かず、オランダ兵は、寝ている3人を銃殺した。
9、その後、父は、この他に匿っていないか折檻された。
10、その折檻の場には、Hasanudinさんもいた。
11、当時、Hasanudinさんは、5歳ほどだったそうで、今でも覚えているとのこと。
12、父は、オランダ軍に連れていかれて、山の中でさらなる折檻を受けたとのこと。
13、山から帰ってきた父のげっそり細った姿を今でも覚えて居るとのこと。
14、このモニュメントは、バリ兵のベテラン(戦友会)が作ったもの。
15、独立記念日は、このモニュメントの前で盛大なセレモニーが行われる。
16、密告した村人の家族は、この地に住めなくなって、どこかに消えた。
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ところで、
Celukan Bawang のジャワ軍上陸と、
このモニュメントは、何か関係がありますか....と聞いたところ、
16、それは、ない。 
17、此処では、戦いがあったのではなく、一方的に殺されただけだ。

Celukan Bawang のジャワ軍上陸は、一度ですか、二度ですか....
とも聞いてみたが、
18、一度だけでした。....と、明言した。

日本軍統治時代のこと、覚えていますか...とも聞いてみた。
19、父を通してよく覚えている。
20、村人に橋をかける作業をさせられた時、「丈夫でない」と何度も作り直された。
21、父は、日本人は厳しすぎると、いつも苦情を漏らしていた。
# by yosaku60 | 2016-08-27 10:38 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

バリにも自然薯があるそうな

知り合いさんから自然薯を分けて頂きました。
日本から株を持ってきて、こちらで育てた自然薯だとのこと。
夕べ、食した処、粘りがあって、美味しく頂けました。
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で、バリ島にも、
ブドグルの山の方に自然薯らしきものがあるとのこと。
バリ語では、ウビクラディ(Ubi Keladi)....
インドネシア語では、Telas というそうな。
今度、ブドグルに行ったら、探してみよっと !
# by yosaku60 | 2016-08-27 09:49 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

リンデキットの戦いの現地調査

リンディキットで、オランダ軍と戦ったジャワ海軍隊....
のバリ島北海岸への上陸について語った、私の以前のブログ....

2016年7月22日の
リンディキットの戦い(その3;ジャワ海軍がバリ島に来た経緯)

で、次のように書いておいた。
再掲する。

.........

(Ⅰ説)

1946年3月3日、ワロカ海軍部隊一ヶ中隊が、
囮部隊としてバリ島北海岸のCelukan Bawang に上陸した。
そこでオランダ軍と戦い、敵兵8名を殺した。
その後、ジャワに戻り本隊に合流し、
ジャワ島西海岸から上陸しようとしたが、
敵側の警戒が厳しく、上陸できるスキがなかった。
で、バリ島北部に至り、
4月6日、Yeh Biu の地点からの上陸を敢行した。

(Ⅱ説)

4月6日、囮部隊として、バリ島北海岸のYeh Biu に上陸を敢行した。
(即ち、3月3日のCelukan Bawang 上陸は、なかったという説)

私は、どちらかというと(Ⅱ説)を指示している。
(Ⅰ説は、Ⅱ説と混同し、2度書きしている)

........

こんな風に買いたオレ、結局は逃げているのだ。
納得できない。
で、上陸地点を現地調査に行って来た。

上陸のモニュメントが二つあれば、Ⅰ説が正しい。
一つであれば、Ⅱ説が正しい確率が高くなる。

と言うことだ。
んで、コミンとコミンの息子のグデを連れて現地調査した結果....

Celukan Bawang の街とYeh Biu  の街の、
二つの街の距離が、陸上では、4キロ離れているが、
海上では、Kapur Point を隔ててとなり合った至近にあることが解った。

要するに、Celukan Bawang と書こうが、
Yeh Biu と書こうが、同じ場所であるということだ。

現地の写真で説明しよう。
ここが、Celukan Bawang の港(桟橋)....
で、桟橋の左側が、Yeh Biu である。
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そして、ジャワ海軍上陸を記念するモニュメントだが、
Celukan Bawang の港の東端の地点にあった。
立派なモニュメントだ。
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コミンの息子のグデと一緒に....
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んで、調査結果だが、住民の聞き込み結果も含めると、
Ⅱ説...即ち、ジャワ海軍が一度きりの上陸であった可能性が高い。
以後、私の書き物は、それで統一させることにする。
# by yosaku60 | 2016-08-26 10:48 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

バツカーン村の戦い(その2;現地調査)

「バツカーン村の戦い」の現地調査に行って来た。
次のとおり、わかったこと、わからないこと、いろいろあった。

1、 その地は、バツカーン村、ではなかった。

バツカーン村への道だが、
プラガ村の大橋を真っ直ぐ北上すると、ランプ村に突き当たる。
その突き当りを右に曲がり、キンタマニー方面に向かうが、
1.5キロ進むと、右に折れる細い道があるので、そこに入る。
で、再び南下すること、4キロでバツカーン村に着く。
が、戦いのあったのは、そこではなかった。
そこから、更に3キロ南下した処がムンガニ村....
そこから、更に3キロ南下したムンガニ村の南の果て....
が、戦闘があった場所であった。

で、巷間「バツカーン村の戦い」と呼ばれているのを
今後は「ムンガニ村の戦い」と修正して呼びたい。

なぜに、こういう間違いをしたかだが、現地に行けば理解できる。
バツカーン村の方がムンガニ村より、村落が大きい。
ムンガニ村も含めて、そのあたり全てをバツカーン村と思ったのだろう。
グーグルアースで、ムンガニ村のモニュメントの位置を確認したい。
左の線は県境である。
線の左は、バドン県、右がバンリ県である。
中央の白い線がムンガニ村に届く道。
途中で切れているのは、ここで行きどまりだからだ。
その行き止まりの点から、更に少々南下すると赤い丸印がある。
ここが、モニュメントの位置である。
右も左も前も谷であること、お分かりいただけると思う。
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2、空から狙い撃ちされて当然。

丘陵の頂点にあるムンガニ村、
こんなところに500名もの兵隊がうごめいておれば、
空から簡単に発見されること、でグーグルアースの地図を見て、
お分かりいただけると思う。
マデダルマの証言通り、味方兵の右往左往が目に見える様だ。

3、現地の人は、何も知らない。

ムンガニ村のモニュメントを見て欲しい。
お詣りのチャナンが、新旧入り乱れておいてあった。
村の人が、モニュメントの存在を大事にしていることがうかがえる。
が、がである。
「このモニュメントの意味知っていますか」
と何人もの村人に聞いたのに、誰もがその意義を応えれなかった。
二人のバリ兵が、ここで戦死したことなんぞ、語り継がれてもいない。
日本では、考えれないほど、のんびりしている(笑)。
でも、日本では考えれないほど、大事に扱われているのも確かだ。

以下、現地取材の状況を写真で紹介する。

バツカーン村からムンガニ村に至る途中の道。
奥の林の向こう側は、崖になっていて降りれない。
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ムンガニ村に着いた。
戦闘の記念モニュメントがどこか、聞くと、
車も入れない、お寺の横のこんな道を行くように教えれた。
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前を歩くのは、コミン。
バリ語を話せる彼女は強い。
目星がついたのだろうか...
オレをさしおいて、どんどん前に行く。
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こんなところに出て来た。
ああ、突き当りに何かありそうだ!
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あった、これだ!
まさに、左右前方の全てが谷に通ずる、行き止まりの地であった。
このあたりで、二人が殺されたに違いない。
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探し当てれたことに感激しているオレ。
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# by yosaku60 | 2016-08-25 11:52 | Trackback | Comments(0)

バツカーン村の戦い(その1;Made Dhamaの証言)

Batu Kaang で戦いのあったことを書いているのは、Made Dhama である。
戦後、日本にも来て、靖国神社をお詣りしてくれたバリ人である。
ご本人は、10年前にお亡くなりになっているが、
奥様(写真)は今だご健在であり、私も何度かお会いしている。
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奥様も従軍看護婦として、独立戦争を戦っている。
Made Dhama は、バドン大隊擲弾筒分隊の分隊長であった。
当時の記憶を辿る戦記、間違った記録も多い。
で、記憶を語る場合、何人か戦友に事実を確認してもらうことになっている。
これから語る、Made Dhama の証言は、次の4氏が事実確認している。
1, Ketut Dangga ; バドン大隊中尉 指揮官 
2, Nyoman Sarja Udaya ; バドン大隊中尉 機関銃射手
3, Gusti Made Oka ; バドン大隊中尉
4, Gusti ketut Gede Oka ; バドン大隊 擲弾筒班 助手

(Made Dhama の証言)

Batu Kaang 村で初めてオランダ軍の放った照明弾を経験した。
夜だというのに空は光り輝き、その明るさを利用して、
オランダ軍は、雨あられと我々を撃ってきたので、
部隊は大混乱になってしまった。
目標もなく右に左に逃げ回るばかりとなった。
敵と味方の距離も20メートルほどで、
そんな至近距離から撃たれたらたまらない。
味方の Dewanli と Made Geh の二人が弾に当たってしまった。
そのあとに、部隊に西の方角に退去するよう命令が届いた。
空にはもう照明弾を撃ちあげてこなかった。
我々は、朝まで休息をとることにした。
翌早朝の5時頃、外はまだ薄暗い光の中、
谷間の方から敵とおぼしきイギリスの鉄兜を被った人物が、
こちらに歩いて来るのが見えた。
私は、指揮官のピンダ大尉に、
「擲弾筒を一発打ち込んでやりましょう」と話したところ、彼から、
「だめだ、弾は高価なんどぞ」と断られてしまった。
日も昇り空も完全に明るくなったので、あたりを見まわしたら、
オランダ軍は全員去った後で、例のイギリスの鉄兜人物がいた。
よく見たら、それは味方のSugianyar大尉であった。
# by yosaku60 | 2016-08-24 12:57 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ワジャのお墓に行って来ました。

「バツカーンの戦い」の現地取材に行く途中、
プラガ村のワジャのお墓に行って来ました。

好き嫌いでものを考えてはいけないのですが、
インドネシア独立戦争に与したを残留日本兵の中で、
私は、ワジャがもっとも好きなのです。

大男で口数が少なく、とにかく勇敢でした。
地元バンジャールにお墓の清掃を頼んでおりますが、
すこしづつ汚れて来ており気になります。

コミンが掃除してくれました。
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持参したチャナンを添え、お詣りしました。
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# by yosaku60 | 2016-08-24 08:04 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

きれいな砂紋に出合えました

今朝のラクダ公園...
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潮が引いた跡の砂紋がきれいでした。
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# by yosaku60 | 2016-08-23 09:54 | バリ島=その日のできごと | Trackback | Comments(0)

ブランディンガン村の戦い

ブランディンガン村ってどこ?
先ずは、場所を確認しておきたい。
次の図の赤い丸で示した処だ。
キンタマニーの外輪山の北の一角だ。
標高1178mの高地の小さな村だ。
高地だから、山も目線の高さに見える。
で、村から、右斜め下に引いた矢印の方向を見ると....
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そう!
バトゥル山、アバン山、アグン山が見える。
どういう風に見えるかというと...
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ングラライ軍は、何故にブランディンガン村に来たのか?

簡単に書く....

アグン山の南の麓のタナアロンでオランダ軍を迎撃したンングラライ軍。
自軍の犠牲者ゼロの中で82名の敵兵を殺す...
という大成果をあげたものの、ほとんどの弾を使い果たした。
で、その後は、戦闘能力のほとんどない状態になった。
タナアロンの後、アグン山に登ることになるが、
登ろうとして登ったのではない。
戦かっては逃げる、戦かっては逃げる、のゲリラ戦...
タナアロンの後の逃げ場は、アグン山頂しかなかったのだ。

山頂からアグン山の北側に降りたングラライ軍...
その後、アバン山の北側を通り、外輪山の上に出た。
一旦、バトゥル湖に降りたが、別の危険が身に迫り、再度外輪山頂に戻る。
そして、外輪山伝いで、ブランディンガン村に至る。

と、いう訳。
で、戦闘だが...

アグン山越えの疲れ、外輪山伝いに歩いた疲れが...
どーと来た感じで、ブランディンガン村に辿り着いたングラライ軍...
ここで休息をとる予定であった。
ブランディンガン村の村長には、すでに連絡してあった。
で、隊員全員の朝食を準備してくれることになっていた。

翌朝、その朝食をとりに隊員が道路に出た処、
バトゥルさん近辺を捜索していた敵の爆撃機に見つかり、
12.7㎜機関銃を掃射してきた。
休息中の隊員は、右往左往の大混乱となり、
ブレレン西方に向けて、転進(逃走)した。

ということで、この地で特別に戦いがあった訳ではない。
ほとんど逃げ廻っただけだった。
が、ングラライ軍が来たということ...
しばらくでも休息をとったということ....
は、村の名誉である。
絶対に、何らかの記念塔があるだろうと、訊ねてみた。

んで、やっぱり、あった!!
こんなのがあった。
ブランディンガン村の村の外れに、である。
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記念塔を探し当ててくれたのは、同行したコミンちゃん。
完全に言葉が話せないと、ここまでは行き着かない。
モニュメントをインドネシア語ではモヌメンと言う。
が、モヌメンでは村の人に通じない。
トゥグパラワンと言わなければ、探せない。
ということも教えてもらったり、
馬に噛まれた右腕が痛く、満足にハンドルを握れないオレに代わり、
行きも帰りも全て運転してくれたコミンちゃん...ありがたい。
お礼にキンタマニーのレストランに案内する。
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# by yosaku60 | 2016-08-22 12:58 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

洗車のメンバー券 = 7700円なり

日本円がインドネシアルピアに対して大幅に高くなった。
現在、一円が130ルピアである。
今までは、一円=100ルピアとしてブログを書いて来たが、
無視できない為替差になってきた。
今日は洗車のメンバー券価格の話....
正確に現在の為替を反映して書きたい。

実は、最近まで家の近所....
歩いて2分の処に、車の洗車専門の店があった。
洗車時間はおおよそ一時間。
その間、家に帰って待つことができる。
そんな便利な洗車屋が人件費の高騰で潰れてしまった。

もう一つの洗車屋は、歩くと20分かかる処にある。
一時間の待ち時間、家に帰るわけにもいかず、店で待たねばならない。
その洗車屋...
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その場合の待合所が「一般客用」と「メンバー専用」に分かれている。
一時間も待つなら、ゆったりとして待ちたい。
メンバー専用の待合所(写真)の方が良いに決まっている。
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で、メンバーになるための費用であるが、
6か月有効のメンバー代が1.5ジュタルピア(11500円)である。
11500円払えば、6か月の間、何回洗車しても無料である。

が.....
洗車をするにしても、一週間に一度がせいぜいである。
となると、一回の洗車代は45000ルピア(350円)。
6か月で4X6=24回洗車しても、8400円にしかならない。
それを11500円払うなんて、大損だ!
1ジュタ=7700円なら良いけど!

なんて...
洗車屋に言ったところ、
「それでOK」なんて言う。
即ち、6か月間有効の24回の回数券を発行するので、
会員になってくれ....と言うのだ。

こちらから提示した案を呑んでくれたので、入るっかない。
てんで、1ジュタ=7700円払い、メンバーになった。

メンバーの利点であるが、

1、一回の洗車代が350円から320円になる。
  たったの30円安くなるだけ。
2、メンバー専用待合所を使える(コーヒーが無料で飲める)。
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だけでない、もう一つある。
実は、現在の私の住まいの駐車場は、上から鳥のフンが落ちて来る。
で、いつもカバーをかけておかないと、すぐに車が汚れる。
でも、週に一回の洗車が無料となると、カバーをかけなくとも良い。
汚れた頃に洗車に行けば、良いのである。
フン被害の気遣いをしなくて良い。

それに、会員だ!!
てんで、きれいなネエちゃんに歓迎され、
コーヒーを何杯もがぶ飲みして、
インターネットを閲覧しておれば、
洗車時間の一時間なんて苦にならない。

てんで、洗車メンバーになった....とさ。
なんか、ちょっとリッチになった気分...だとさ。
# by yosaku60 | 2016-08-21 10:59 | バリ島=物価・修理費 | Trackback | Comments(0)

三角地帯の中の戦闘(その3;戦闘モニュメント)

いくつもの戦闘があったブレレンの三角地帯。
前にも書いたように、それを記念するモニュメントがない....
と、思っていたら、
ボンティン村(Bontihing)で、それを見つけた。
村の大通りのど真ん中にあった。
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ボンティン村....
下図の最も右の村である。
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ボンティン村で戦闘があったとの記録はない。
三角地帯の戦闘を此処でまとめているのではなかろうか。
何故なら、次のとおり戦死者が多すぎるから....
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# by yosaku60 | 2016-08-20 07:36 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ヌサペニダ行き(その4;バンジャールの合同葬儀)

カデのバレタジュ(Bale Tajuk)の前に立つオレ。
オレが撮った写真(ポトンギギの時のもの)が飾られていた。
(参考)バレタジュの価格;15~20ジュタ。
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カデのバレタジュの前の夫と二人の娘。
夫に対し親類から葬儀が終わったら、再婚しても...
の話がオレに問われた....まだ若いから、そうあるべきだと言っておいた。
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カデの最も近い親戚のバレタジュ。
集まっている男ども、この日のために全員出稼ぎ先から帰って来た。
この中に8人もの人が入っている。
(その理由)
合同葬儀は、7~8年に一度ある。
この大家族、この8年の間に8名の死者があったということ。
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カデのバレタジュの火葬場への出立。
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出立は勇壮に行われる。
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これも。
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これも。
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これも。
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火葬場に着いたカデのバレタジュの前に立つオレ。
右の男、バレタジュの下に薪木をくべている。
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全員を、写真右奥のワダの中に(wadah)入れる。
全員(死者)って? 何名なのか。
いろいろな人に聞くが、ばらばらな答えが返って来る。
答えの中で、一番少なかったのが35名。
一番多かったのが50名。
まあ、35~50名の葬儀っていうことになる。
この大雑把さが、バリの良い処。
さて、高いワダほど立派だとされる。
のは、天国に近いという意味だろうか。
バレタジュもワダも最後はみんな燃やされる。
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燃やされたものの中から、らしきものを拾って、海に流して、葬儀は終わる。
が、そこまでは観ておれないので、私は、サヌールに戻った。
あとで聞くと、海に流したのは、夜中の12時であったらしい。
バリの合同葬儀.....大変だ。
# by yosaku60 | 2016-08-19 07:58 | ヌサペニダ島 | Trackback | Comments(0)

ヌサペニダ行き(その3;美男美女の島)

前日の打ち合わせでは、朝の8時集合であった。
なのに、寝過ごして、7時に目覚める。
慌てて、朝食を済ませ、荷物をまとめ、
入浴もせずにホテルを出たのが、7時半。

途中の峠で右と左に道が別れていた。
夕べ通った道である。
が、夜と朝では景色が違う。
多分、左だろうと思ったが、念のために通行人に聞いた。

のがいけなかった。
その男(学校の先生)は、右に行け、というので、
そのとおり進むと、どんどん知らない道に入る。

まあ、よくあることだ。
バリで道を尋ねた場合の整合率は60%である。
峠まで引き返し、左の道を進んだ。

15分のロスであった。
で、村に着いたのが、8時15分....
で、夕べの知人に挨拶にゆくと、
「早くいらしたのね」だなんて、
そう、これもバリである。
15分遅れは、遅れ方が少ないのである。

まあ、てな訳で、知人全員に挨拶に廻る。
と、なんと、ヌサペニダ島(人)は、美男美女ばかりだ!
写真で紹介する。
まずは、死んだカデの夫の親戚筋。
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と、オレ。
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手前は、カデの長女のアリ(小学6年)。
右手前の小さい子が次女のドゥイ(小学3年)
右奥の男性が、カデの夫。
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中央が、現在のお手伝いさんのカデ....
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の長男が右。
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# by yosaku60 | 2016-08-18 08:02 | ヌサペニダ島 | Trackback | Comments(0)

ヌサペニダ行き(その2;ホテル泊)

本日は独立記念日。
ムルタサリビーチでは、記念植樹が行われていた。
植えられるのは、フォルビア(Eforbia)の花....
どこを持っても、棘が痛く、毒々しい色の花が咲く....
どうでもいいが、オレが最も嫌いな花だ。
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さて、ヌサペニダ島の話のつづき...
パダンバイ港からのフェリーが着いたのがブユ港。
目的地は、ポンドック・カ・カジャ村。
少しでも近くを行こうと、
ブユ村を出て、すぐに左に曲がり、山道に入った。
穴っポコだらけの大変な道だった。
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村に着いて、葬儀一切を聞いた処、明日の午前中に火葬するという。
じゃ、明日又来るね...
てんで、とにかくビールが飲みたくなってホテルへ...
村人に聞いた、Tingajajang村のビラとやらに行く。
が、そこは、バイクが滑り落ちるような山路の奥で、
近くに牛小屋があって、特別な臭いが漂う、コンセプト不明なビラ。
一夜とはいえ、こんなところに泊まるオレは可哀想。
それに冷蔵庫もなければ、冷えたビールもない。
早々に、キャンセルして、
ちょっと遠いが、Ped のかって知ったるホテルに向かう。
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一泊5千円だが、それだけの値がある、十分に清潔だ。
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良く冷えたビールも頂けた。
日本人が珍しいと、日本語を覚えたがるスタッフ。
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おかげでぐっすり眠れた。
というより、目覚めたのが、朝の7時、少々寝過ごしてしまった感あり。
# by yosaku60 | 2016-08-17 10:14 | ヌサペニダ島 | Trackback | Comments(0)

ヌサペニダ行き(その1;バイク持参で島に行く)

ヌサペニダ島に行って来た。
前回は島でバイクを借りるのに苦労した。
で、今回はバイク持参で島に渡る計画だ。
そのためには、パダンバイからフェリーに乗らねばならない。

んで、朝の7時半に家を出発。
パダンバイには、8時40分に着く。
で、ヌサペニダ行きのフェリーを訊ねると、
毎日一便、11時受付、12時出発の便があるのみという。

11時受付、うそつけ...
こういう場合、大体が10時頃から受けつける。
これがバリ時間だ。
にしても、それまで1時間20分ある。

んで、浜辺に寝転んで待った。
と、いつの間にか寝てしまった。
目が覚めると、10時15分。
慌てて、窓口に行くと、察した通り、もうチケットを販売している。

(往路)

バイク持参の場合、窓口を二つ回らねばならない。
まずは、一人分のチケット代、350円。
それから、バイク代、480円。

と、まあ....あまり思い出したくないけど、
12時発のフェリー、港の近くにいるが、なぜか着桟しない。
んで、んで、実際に出発したのが、2時半。
なんと、チケットを買ってから、4時間待ち。
これもバリ時間だ。

ということで、ヌサペニダ島のブユ港に、
着いたのが、4時半。

そこから、目的地までは、45分を予定。
遅れたので、より近い道路として、山路を選ぶ。
穴ぽこだらけの山路....
飛んだり跳ねたり...
ハンドルを持つ手に力が入る。
道に迷ったのもあって、45分では着けなく、
一時間かかり村に着くと、腕がパンパンに腫れて...
その時点で、ヌサペニダなんて、もういや!


(復路)

んで、次の日の、帰りだが、もうフェリーを使いたくない。
バイク持参でスピードボートに乗れるのだろうか。
葬儀参列で少々疲れた。
料金が高くても良いからスピードボートで直接にサヌールに行きたい。
それも、ブユ港からではなく、トヨパク港から行きたい。

てんで、いろいろな人に聞くが、
難しい、いや行ける、と知ってる人が少ない。
時間も2時出発だ、いや3時もある、と人によってまちまちだ。
出発する港も、トヨパク港ではなく、マルチ港からだと言う。

こういう場合、現地に行くのが一番だ。
んで、とにかく、午後の一時に、トヨパク港に行ってみた。
で、港で聞くと、トヨパクからはバイクを乗せれない。
「マルチ港に行け」という。
んで、マルチ港に行くと、
「マルチ港からはバイクを乗せれない」という。
じゃ、どこからだと、バイクを乗せれるのか、と聞くと。
「隣に行って聞いてみろ」という。

隣とは、500Mほど東のパシチュンタメ港である。
んで、パシチュンタメ港に着いて、窓口で聞くと。
ちょっと時間をおいてから「バイクは、ダメ」という。

迷いながら答えたってことは、OK なのだ。
お金次第ってことだ...これもバリ島である。
で、粘ると、「船長に聞いてくれ」と言う。
ということは、やはり OK なのである。

なんやかんやで、乗船代30万ルピア...
サヌール港に無事に着いたら、7万ルピア上乗せ...
計37万ルピアで交渉成立。
人間だけなら、ひとり7万5千ルピアなので、ちょうど5倍の料金である。

ちょっと高すぎるようだが、
パシチュンタメ港での積み込み光景を見てくれ、
男が5人がかりで、バイクをボートに運ぶ。
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これがボート。
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そして、サヌールで卸すのにも4人がかり。
こんなの見ると、まあいいいか.....と思う。
外人は、現地人より高く払うってのは....税金みたいなものだ。
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# by yosaku60 | 2016-08-16 12:11 | ヌサペニダ島 | Trackback | Comments(0)

急遽、ヌサペニダ島に行って来ます。

4年間お手伝いさんとして働いてくれた、カデ...
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が闘病の末、亡くなったのが2014年2月。
それから2年半、明日、ヌサペニダ島で、そのお葬式があるという。

バリヒンドゥーの数々あるセレモニーの中で、最も重要なのがお葬式。
で、お金もかかる。
それを安くあげるのが「合同葬儀」だ。
通常は、30~50万円かかるお葬式代が、5~10万円で済む。
明日のカデのお葬式、40人ほどの「合同葬儀」である。

三日がかりのお葬式だ。
1日目;土葬の掘り起こし
2日目;火葬
3日目;海に流す

明日朝早く、ヌサペニダ島に出かける。
一晩どまりになるだろう。

お手伝いさんだったカデの死....
について過去に書いたブログを再掲する。
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「インドネシアのここが悪い」

日本が好きだから日本の悪口を言う。
インドネシアも好きだから悪口を書きたい。
それも思いっきり悪口を書きたい。

昨晩、カデが死んでしまったのだ。
4年間、私の家で働いてくれたお手伝いさんだった。

もし、彼女が日本人であれば死なずにすんだ!!!
インドネシア人だから死んでしまったのだ。

もし、彼女がオレの娘であれば助けれた!!!
オレがそこまで責任を持たなかったということだ。

可哀相に.........ってよそよそしい言葉すぎる。
だけど、今は、ただそう思うだけ。

彼女は、真面目だった。
なのに、なんとついていない人生だったんだろう。

たったの28年間の人生だった。
彼女の人生を語らせてくれ。



まあまあ普通の家に育った彼女。
中学生になった時に父親が事故で亡くなった。
彼女曰く、それ以来全てが不幸になった。
外に出ず家で縫製の仕事をしていて20歳の時に結婚した。
子供が二人生まれた後、オレの家のお手伝いさんとして働き始めた。
オレの家が人生で初めて他人に使われる労働体験であった。
二人の子供にお金がかかり始め、木彫り職人である夫の給料、
15,000円だけでは、食べていけなくなったからであった。

彼女は私の家に通うために中古バイクをローンで買った。
その返金のため、お手伝いとしての給料が全部消えた。

その中古バイクは、詐欺まがいで買わされたものであった。
中古バイク販売業者・保険屋・高利金融業者が共謀して彼女を騙したのだった。
私も一緒に警察に行き、訴えたがどうにもならなかった。
彼女は、その中古バイクを安く闇に流し新しい中古バイクを買った。
彼女は、また借金を増やしてしまった。

お金が足らなくなると、給料の前借をすることがあった。
が、私は彼女のためということで一ヶ月分以上の前貸しは認めなかった。
彼女は、私の気持を察しそれ以上の前借を要求することはなかった。

時々、母親が彼女にお金をせびりに来た。
3人姉妹の中でもっとも貧乏だった彼女はそんな母親へ援助ができないでいた。
お金をせびりに来る母親を憎みながらも、
やはりそこは親子、彼女はなんとかして助けたいと思っていた。
ある日、涙を流して一ヶ月以上の前借を申し出てきた。
訳を聞くと、どうしても母親に上げたいという。
オレもなんとかしてあげたかったので、
10ヶ月先のボーナスの先払いということで前貸しせずにつじつまを合わせた。
母親にあげれるお金を手にした彼女の泣き笑いの顔を今も思い出す。
20代の可憐な顔であった。

という風に、彼女はいつもお金にピーピーしていた。
お金がないことが、全ての不幸の大元であった。
そういう生活が3年続いていた。

私の友人のMさんの家で時々アルバイトの仕事があるようになった彼女、
少し、ほんの少し.......お金に余裕が出てきた。
前借地獄から脱出するチャンスであった。
私は、彼女に「預金」の楽しみを覚えさせようと図った。
私に2千円預けると千円利息をつけて3千円にすることを話した。
ただし前借りをしたら、その利息が消えるという条件だ。
彼女は、この話に乗ってきた。

頑張って頑張って、私への預金を増やし始めたのだ。
2ヶ月続けて給料の半分を私に預金した彼女、
「大丈夫か、生活できるのか」に、「なんとかなる」、
さらに「貯めて何に使うの」と聞くと、
「夫に新しいバイクを買ってあげるの」と言う。
いつも自分よりも他人を考える彼女だった。

そんな彼女、去年の11月、
私の留守中に家の掃除をしていた彼女から、
身体の不調を訴えるメールがあった。
早々に家に帰ると、顔面蒼白の彼女がいた。
猛烈な腹痛、という。

その腹痛に対処するため、彼女と夫、それに夫の母親は、
占い師を家に呼び祈祷を始めた。

祈祷じゃ治るわけがない.....と、思いながらも
それぞれの文化があるのだからと、口を出せないでいた。
が、腹痛はどんどん重くなって歩行すら出来ない状態になった。
で、私は彼女の家の者を説得し彼女を検査機関に連れ込んだ。

血液検査では、血沈のみの異常で60mmと速かった。
エコー検査では、虫垂炎と胆のう炎の疑いとの見立てであった。

ここからは、バタバタであった。

虫垂炎と胆のう炎に重きをおいて治療を主張するオレ、
悪霊の仕業、あるいは他の病気(すぐに治るような)としたい家族、
責任感に乏しくお金儲けだけを考える医療機関と医者達、
知識に乏しい中、これらの間で右往左往する彼女、
が、絡んでバタバタだったのである。

私がこの中で怒りたいのは、医療機関と医者達である。
無責任極まりない。
病気を真剣に治す気がないのである。
医療機関の診察システムと医者の診察態度が無茶苦茶だ。


簡単に書くとこうだ。
名のある医者は、大きな病院(A)に勤めていて、
10時ごろから12時までは、その病院に来る患者の診察をする。
12時から13時は休憩して、13時から15時は入院患者の診察をする。
15時には病院を出て、16時からは別の病院(B)での診察にあたる。
この別の病院というのは、医者個人の診療所だったり、
別に契約するに私立の病院だったりする。
要するに夜間のアルバイト診療である。

(B)病院では、その医者に診てもらいたい人が集る。
その数、毎日30人から40人で、満杯になれば打ち切られる。
この患者達は、病院に支払うのとは別に医者に直接料金を払う。
だから、医者は午前中の病院勤め(A)よりも、
よりこの夜のアルバイト勤務の方(B)に力を入れる。
ここで処方箋を書き、薬局で薬を受け取らせるが、
その薬代の20%は、医者の取り分として還元される。

医者は、午前中の診療で名前をとり、
夕方のアルバイトでお金をとるのである。
簡単にお金が取れるので、いっぱいの患者を引き受ける。
したがって、2時間で40人、ひとり3分の診察を行う。
これが、毎日繰り返される。
医者は医学の進歩に合せた新しい勉強などする暇がない。

のである。
したがって、診察なんて数十秒で終る。
問診なんてしないに等しい。 
問診なくして患者を理解できるわけないじゃないか。

公立病院にも医者がいて、診てもらうことができる。
が、公立病院では手術などの高額医療はなかなか受けてもらえない。
「今、医者がジャカルタにいていないから」
などと、居留守を使われるのである。
何故なのか、医療費を払ってもらえない人の治療からは逃げるのだ。

そこに来ると我々外国人、お金があると思うのだろうか、
どんな治療もすぐにしてくれる.....が治療費がべらぼうに高い。

まあ、ざーと、こんな訳なんです。
ひどいでしょう。

さて、腹痛が治まらないカデ。
私は名のある病院に連れて行き診察を受けさせた。
虫垂炎・胆のう炎の判断が出たエコー写真を見せた上で診察を依頼した。
医者は、カデをベッドに寝させ右足を折りたためさせ、
「痛いか」と尋ね、「痛い」というと、虫垂炎と断定した。
その断定まで、数十秒という早さだ。
そして、私が外国人であることを知り、
すぐにその場で虫垂炎の手術を行うことを決めた。
まあ、虫垂炎の手術であれば失敗はなさそうなので私もOKした。

が、手術をする段階になって、
料金前払いでないと手術をしないと言い出す。
慌てて家に帰って、銀行からお金を引き出し、
手術に間に合わせた。

さて、手術が行われ、カデの盲腸が切り取られた。
と、それが子供の小指ぐらいの大きさなんです。

もしかしたら虫垂炎ではなく、
胆のう炎の方だったかも知れない。
と、私は不安になった。
インドネシアの医者に不信感を持ち始めた。

案の定であった。
虫垂炎の手術が終ったのに、カデの腹痛はおさまらない。
もう一度検査機関に行き、血液検査を行った。

やはり、血沈の値が前と同じ、改善されていない。
次いで、胆のう炎の原因が胆石であるかどうかの
エコー検査を受けさせた。
結果は1cmほどの石が数個ある、との診断だった。

私は、胆石があるとどのような症状になるのか、
それにはどう対処したら良いのか、全く知識がなく、
自信がないままに彼女に接した。
この頃はカデも弱気になり、
なかなか行動を共にしてくれなくなっていた。
私は彼女の代わりに医者のところに行き、
胆石を溶かす薬と抗生物質薬と痛み止め薬を処方してもらい、
彼女に飲んでもらった。

でも、痛みがなくならなし、症状も改善しない。
薬をもっと強くするか、手術するかしかない。

インドネシアの医療に疑問をもったオレ、
また、後見の私が日本人なので手術代が高額になることの
嫌気感を持ったオレ、
私が責任を持つ形で手術を勧める気にはなれなかった。
今から考えれば、小心で卑怯で粘りがなかった。

強い薬を処方してもらおう、とカデに迫ったが、
この頃になると、カデは諦めたのか
私の言うことを聞かなくなっていた。
もういちど挑戦しよう、
もういちど一緒に医者に行こう、というオレに
もうこれ以上、私に迷惑掛けたくないとカデは拒んだ。

カデが腹痛で家にいる間、亭主のワヤンは、
会社に行かなかった。
何故と聞くと、カデがそうしてくれ、と言うそうです。
カデに確かめると、そのとおりという。
ひとりで家に居るのが不安なんです。
わからないでもありません。

二人共働かなければ、生活できないじゃないか。
と問い詰めると、
「だから、ヌサペニダ(実家)に帰る」という。

そこまで覚悟しているならとオレも匙を投げた。

カデの亭主、ワヤンに
「ヌサペニダに行ったらバンジャールを通じて援助を申請しろ」
「そして、胆石除去の手術を受けさせろ」
と、何度も言い渡した。

しかし、ワヤンは真面目だけが取り得の男。
そういう世間ずれした行動をとれる男ではない。
多分、ヌサペニダに行っても、なにも行動を起こさないだろう。

ということが想像できていた。
その末は、どうなるか........考えたくないことであった。
そして、昨晩とうとうカデは死んでしまったのです。

先ほどワヤンから電話がありました。

「カデが死にました」
「バパにはお世話になりました」

私はカデを助けることができなかった力不足を謝りました。

思いつく4年間のカデの印象に残る言葉を次に付記して、
カデの冥福を祈りたく思います。

1、父親が死んでから今まで何も楽しいことがありませんでした。
2、この齢になるまで、お金ってこんなに大事なものと知りませんでした。
3、私は普通の人より頭が悪いのです。
4、バパ(私のこと)がバリに居る限り、私はここで働きます。

笑い顔が少なかった彼女、
ようやく笑いが見え始めたと思った矢先でした。
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28歳の若さでした。
なんと薄幸の娘なのでしょう。
インドネシアの医療を憎みます。


......

彼女の家(夫の実家)は、ヌサペニダ島の山の中、
道路事情も良くないと聞く。
バイク持参でパダンバイからフェリーに乗って島に行く。
そのバイク、念のため今ほど総点検してきた。
前輪後輪のタイヤを新替えし、タイヤ内にパンク防止剤を入れ、
オイル交換をして.....費用総額5300円。
そして、洗車.....150円。

さあ、出発だ。
# by yosaku60 | 2016-08-13 09:49 | バリ島=人物往来 | Trackback | Comments(2)

三角地帯の中の戦闘(その2;Skumpulの戦い)

(砲兵隊を率いたピンダ中尉の証言)

我々は、2日間ほど、Nangka村に留まっていた。
Nangka村は、Lumukih村から300m登った処にある小さな集落だ。
時は、1946年6月10日。
見張り要員からあわただしく報告があった。
オランダ軍がSudaji村、Bebeten村に来ているというのだ。
5~7キロの至近距離である。
出撃用意!出撃用意!の命令が下った。
命令を出したのは、Wisunu少佐であった。
バドゥン部隊とシンガラジャ部隊は敵の右側面より、
タバナン部隊は左側面より、
マルカディ大尉(ジャワ海軍)は、敵の正面から当たることになった。
私の砲兵隊、それにブンアリ隊(日本人)もマルカディ大尉隊に加わった。
我々は、敵を求めて山を下った。
Lumukih村を抜け更に4キロほど下がった処で、
恐怖に顔をひきつらせて走ってくる中年の女性に出逢った。

「何があったの?」と聞いてみた。
私は怖いのです...
あっちの方に、すごい人数のオランダ兵がいるのです....
「あっちって?」
学校の校舎です....
あっちの丘の脇にある校舎です....
と、400m北側の小さい丘を指さして答えた。
「丘に登ると校舎が見えるのですか?」
はい、見えます....

マルカディ大尉は、すぐに決断した。
あの丘に登ろう。
足音を立てないように、が、駆け足で丘を目指した。
丘の頂上に着くと、実に良い立地であった。
頂上は、40mX60mほどの広さでキャッサバが植えられていた。
木々は、敵の目からは、我々を遮蔽してくれている。
が、我々からは眼下が丸見えであった。
そして200mほどの距離に屋根瓦が見えた。
校舎の屋根なのだろう。
2名の斥候に確認に行かせた。
2名はすぐに帰ってきた。

敵がいます....
すごい人数です....
一個中隊(150名ほど)はいます....

この敵に奇襲攻撃をかけることにした。
丘の上は、武器を持った兵であふれた。
我々の装備は、軽機一挺、自動小銃三挺、小銃数十挺、擲弾筒であった。
まず、最初に擲弾筒を撃ち込む。
その砲弾炸裂音を合図に一斉射撃することになった。
ブンアリ(日本人)が、バグスバグスと、賛成してくれた。

「撃て!」マルカディ大尉の号令が発せられた。
弾は正確に校舎の校庭に落下した。
が、爆発しなかった。
川に石ころを投げたようなものだった。
私は、腹が立った。
なんで、爆発もしない、こんな重いものを担いで来たのか。
そうこうする内に、オランダ兵が校庭に集まるのが見えた。
発射音があったのに、鉄の塊りが校庭に降って来ただけ、
で、不思議に思い、確かめに出て来たのだろう。
私は、再度、擲弾筒を撃ってみることにした。
ドドドン!
弾は校庭の人ごみの中に落下し、強烈な音を発して炸裂した。
この炸裂に合わせ、一斉射撃が始まった。
数千発の銃弾を、慌てふためいている敵にあびせかけた。
約30分撃ちまくっている時、突然に敵が白旗をあげて出て来た。
我々は、ジュネーブ条約を思いだし、射撃を中止した。

と、敵は白旗を振りながら、
戦死した仲間の武器を集めたり、負傷兵を運び始めた。
この白旗は嘘じゃないのか?
マルカディ大尉に、「撃ってしまいましょう」と、
「いや、やめておこう」との返答があった。
と、武器を集め終った彼らは、今度は東へ西へとばらばらに逃げ出した。

で、どうしたものかと迷っていた時だった。
ブンアリ(日本人)と彼に従う二人の兵が、いち早く行動を起こしていた。
オランダ兵が逃げ込む方に廻りこんでいたのだ。
そして、逃げてくるオランダ兵に襲いかかり全員を殺した。
# by yosaku60 | 2016-08-12 12:16 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

三角地帯の中の戦闘(その1;軍を分ける?)

ングラライの悩みは、従軍兵が多すぎることであった。
全員が武器を持てるならば、それでも良い。
竹槍だけの兵隊が多くても戦いが有利にならない。
食料をあてがうのも大変だ。

記録によれば、6月13日、ボン村....
そこから東に向け谷を降り、丘に登り、
更に谷に降り、7キロ先のマニックリユ村に向かう。
マニックリユ村着、6月15日....
7キロを2日間で行進したことになる。
谷を降りたり登ったりする行軍は、この程度はかかる。
そのマニックリユ村で、軍を解体し相当の兵を故郷に帰している。

であるが....

記録にないものの、
それよりも前に行軍を解体(分隊)している気配がある。
私見での大胆な予想だが、次の図を見てもらいたい。
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6月10日、パンクンバンカ村で戦いがあった。
6月12日、ングラライは、ランプ村に到着している。
この間、2日間で31キロ、行軍したことになる。
現地の地勢を知ると、絶対に不可能と思える行軍だ。

従って、スクンピル村、あるいは、ルムキー村で、
西に向かう軍(パンクンバンカ村へと)と、
東に向かう本隊(ランプ村へと)に分けたのではなかろうか。

そうであったものと前提し、三角地帯の戦闘を語りたい。
# by yosaku60 | 2016-08-11 10:17 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

バリの男どもは......が、いいやつもいる。

バリ島は徹底的に男社会だ。
なぜなら、男しか一家を継げないからだ。
初産の女性は、「男が欲しい」という。
誰に聞いても全員が声を揃えてそういうのだから...
半ば気持ちが悪い。
そんなんだから、生まれた男児は徹底的に大事にされる。
その結果、見てくれ!、この光景。
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「あんたたち、ゴミ拾いをしなさい!」
と怒られても、知らんふりして、だべる男の子達....
写真の左奥には、一生懸命、働いている、女の子達...
そうなのだ。
男の子は、小さい時から、凧揚げ、釣りに熱中する。
女の子は、小さい時から、家のお手伝いをする。
これが、バリ島の男女の関係だ。

バリの男社会...例えば、

親の財産は、子供(男)に譲ることができる。
が、子供(女)に譲ることができない。
でも、女の子しかいない家庭がある。
が、自分の子(女)に財産を譲りたい場合がある。
どうするか。
子が親から買ったことにするのだ。
財産の売買だから、届け出る必要がある。
当然に経費がかかるのだ。

まあ、なんやかんや、そんなんだから...
大人になっても働かないバリ人(男)が多い。
そんな家は、中がバタバタだ。

そんな中で、真面目な男もいる。
そんな真面目な男、3名を紹介したい。

まずは、家の庭の面倒をみてくれるワヤン。
彼は、庭師ではない。
本職は床屋さんだ。
家の庭の木が伸びだす頃にやってきてきれいにしてくれる。
過去の長いつきあいから頼まなくとも来てくれる。
そして、びっくりするほど、きれいにしてくれる。
ありがたい。
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ついで、コミンの夫のコマン。
日本食の料理人を6年間、勤め上げたあと、
趣味のパソコンの修理を本職にし、店を開いた。
パソコンだけでなく、弱電ならば、何でも修理してくれる。
例えば、携帯電話の修理は、細かいらしく....
仕事を受け、それを修理するのに夜中も働いている。
左がコマン、右が妻のコミン。
コミン、この日は、生まれて初めてのアルコール(ビール)に挑戦。
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もう一人は、グデ(左)。
シンガラジャの山のルートを案内してくれた男だ。
小学校の代用教員をしている。
微々たる給料で、山奥の田舎にとどまっている。
なぜなら、実母と継母の二人の面倒をひとりでみているからだ。
そのうちのひとりは、病気なのでつきっきりの介護をしている。
お金もなく、こんな家に来てくれるお嫁さんはいない。
で、二人の母親の面倒を看ながら、生涯独身を覚悟している。
気持ちの優しい好青年である。
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3人に共通して言えること。
ワヤン、コマンは、女房を怒ったことがないという。
グデは、自分のことをさしおいて二人の母親に尽くしている。
3人とも女性に優しいのだ。
オレも見習いたいが、少しムリ....だ、無理。
# by yosaku60 | 2016-08-07 09:06 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(2)

ングラライが行軍した三角地帯の村々

ングラライ軍が何度も訪れた三角地帯...
その中で訪れた記録が残っている村の名を書きだしてみた。
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ングラライがお祈りに寄ったとの記録がある、Pura Dalem。
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何度も来ていて、戦闘もあった、bebetin村。
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Sawan村。
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山の上のpakisan村(広い)。
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ここからは道幅が狭くなる、Lumukih村。
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同じく、lumukih村。
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# by yosaku60 | 2016-08-05 06:45 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(2)

今日のおやつは、ブブカンジ

コミンがおやつを作ってくれた。
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ブブカンジというおやつだ。

   インドネシア語; Bubur kanji  (ブブルカンジ)
   バリ語     ; Bubuh kanji (ブブカンジ)

グビ(芋)を炊いて、四角に切り、
椰子の実の中の白い部分(Nyuh;バリ語)を削り、
その削り粉を梳いて水溶液(Santen;バリ語)を作り、
タピオカを温めて、黒砂糖を加えて、ヌメリ液を作り、
それらをいっしょくたにして食べる。
こんなのになる。
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タピオカのヌメリに歯ごたえがあって、これは美味しい。
冷蔵庫に入れて、明日の昼飯も、これをいただくことにする。
# by yosaku60 | 2016-08-04 07:58 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

調査失敗例(その2;ガルンガンのモニュメント)

三角地帯をウロウロしていて、
村人から、もうひとつ情報がもたらされた。
「ガルンガン村に戦争の記念塔がある」というのだ。
ガルンガン村....地図で調べると、結構な山の中である。
行ってみた。
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この門を潜ると...
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左手に高台に登る階段が続いていた。
余り訪れる人がいないようだ。
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で、あったのが、コレ!
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近寄って見ると....
「いろいろな宗教があるけど、みんな仲良く」の
建国のパンチャシーラのもっとも有名な言葉が....
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なんだ、建国(独立)記念塔じゃないか。
やっと、ここまで来たのに、調査不発です。
# by yosaku60 | 2016-08-03 08:55 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

調査失敗例(その1;ベジ寺の日本兵)

ングラライが何度も行軍した、前述の三角地帯。
行軍に参加した日本兵の数だが、最初の頃は、15人以上....
いたのではなかろうか。
いずれにしても、三角地帯は、日本兵も歩いた場所だ。
調査は、村人に語り継がれる聞き込みをするだけ...
年輩の人に細かい話を聞くときは、バリ語でないと通じない。
で、シンガラジャ近辺の調査は、地元民でもある、コミンの力を借りる。

で、この日も、
三角地帯をウロウロしながら、
コミンに情報を集めさせていた時、であった。

「ベジ寺に日本兵を祀っているよ」

との聞き込みがあった。
地図で調べると、シンガラジャから5キロと近い。
行こう!!!....てんで、山を降り、海岸に向かった。

日本兵って....見当が付かない....どんなん?
ワクワクしながら、寺に着いた。
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寺の中に入ると、広い中庭があった。
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周囲を見渡すも、「日本兵」らしきものがない。
代わりに、こんな人に出逢った。
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結婚式のお祈りだろうが、由緒ある、お寺なのだろう。
オレの目的は、日本兵...
中庭の奥に、割れ門がある。
きっと、あの中だ.....てんで、入ってみた。
と、なにやら複雑な建物が...
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この階段は一年に一度しか登れない...
など、複雑さの由来を聞いたが、オレの耳にはちっとも残らない。
日本兵どこだ...振り向くと、あった!
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本当に、日本兵なのか?
近づいて見てみた。
確かに、日本人の顔だ。
それに、兵隊の鉄兜を被っている。
足元は、半長靴に脚絆を巻いている。
確かに、日本兵だ。
が、何故にバイオリンを持っているんだ???
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と、反対側に、こんなのがあった。
明らかに外人だ。
オランダ兵かも?
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近づいて見ると、確かに外人だ。
が、戦闘帽ではなく、探検帽を被っている。
それにギターを持っている。
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結局、何がなんだか判らずに、その場を離れた。

今思ってみるのだが...
あれは石の質がまわりと違った。
あとで、造られて、埋め込まれたものなのだろう。
何の目的?
インドネシアは、オランダに征服された歴史がある。
次いで、日本に征服された歴史がある。
いろいろあったが、「平和が一番」....
という祈りを込めて埋められたものではなかろうか、
と、勝手に思っている。
いずれにしても、
ベジ寺の調査は不発でした。
# by yosaku60 | 2016-08-02 08:31 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ングラライ軍が最も行軍したところ

ングラライ軍は、ゲリラ戦を行った。
隠れ棲む処が分からないように常時移動していた。
いわゆる行軍の連続だ。
原則として、一度歩いた処は、再度歩かない。
であるが、そんな中で、
2度、あるいは3度歩いた処がある。
下図の三角地点だ。
ブレレン県のタンバハン郡、サワン郡、スカサダ郡である。
私も、何度かこの地を訪れ、調査している。
その調査、いつもうまくゆくとは限らない。
いつもいいカッコするだけでなく、
明日から、この地での調査の失敗談を語りたい。
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# by yosaku60 | 2016-08-01 13:25 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ラクダの個体識別の方法

今日は日曜日。
ラクダ公園には、いろいろな人が訪れる。
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さて、今日はラクダの個体識別方法について...
よーく見ると、「つむじ」がそれぞれ違うようだ。
先ずは、猛々しい、雄の ジョー(joe)
つむじも勇ましい。
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やはり雄のアルバート(Alberth)
後部に黒い鬣がある....おしゃれだ。
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おばあちゃんのヘンドゥル(Hendelith)
立った髪がなく、全部寝てしまっている。
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雌のメルティ(melti)
可愛いちりちり髪である。
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子供(雌)のヘニー(henny)
髪が柔らかく、立っている。
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# by yosaku60 | 2016-07-31 10:32 | バリ島=その日のできごと | Trackback | Comments(0)

ングラライ軍、ブレレンに入る。

俗に「ングラライの長征」と言われるのは、
1946年5月~11月の、たった7ヵ月の話である...短い。
ムンドックマランに集合した兵は、2000余名。
タバナンからバトゥカル山を超えブレレンに入ったのは、約1000名。

写真の左の民家を見ていただきたい。
その民家の左は、崖になっており、谷底に通じている。
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1000名がその谷に入って行ったのである。
1946年5月、この谷に入ったのが、長征の始まりであった。
その場所に佇む立像.....
小銃を担ぎ、手には鍬を持っている。
d0083068_8544018.jpg

なんのための鍬なのだろうか。
1000名の道を作るため...
先頭集団は、滑り落ちる傾斜地を鍬で階段を作りながら...
降りたのではなかろうか。
# by yosaku60 | 2016-07-30 08:32 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

プネベルの戦い

プネベル...
下図のほぼ中央にある集落。
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1946年4月、ムンドックマランの地で、
ングラライ率いるバリ島独立義勇軍(バリ軍)が旗揚げ式を行った。
バリ島のあちこちから馳せ参じ、2000余名の軍勢となった。
近辺の村々から軍に食料が提供された。
が、2000余名の毎日の食料は半端な量ではない。
駐屯するだけだと、食料提供を渋るようになった。
戦わない日が2~3日続くとご飯だけしか出てこなくなった。
戦かって戦果をあげて帰ると、肉や野菜が出た。
ングラライの目指したのは、ゲリラ戦である。
ゲリラ戦とは通常は隠れていて時々出て来て戦う戦法である。
が、独立軍は、積極的に外に出て戦いを仕掛けなければならなかった。
そうしなければ、食糧を供給して貰えないからだ。
かといって、潜伏地の近くで戦えば、本隊がダメージを受ける。
で、兵を分けて、遠くに出かけて戦わねばならなかった。
そうした事情で始まったのが「プネベルの戦い」であった。

戦いのあった小学校の前にあるモニュメント....
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プネベルは、ムンドックマランから直線距離で30キロある。
兵を率いたのは、独立軍NO.2のウイスヌ少佐であった。
プネベルの小学校にあるオランダ軍の前線哨所を襲う計画である。
襲撃の目的は、敵の武器を奪還することであった。

襲撃作戦は、
本隊は小学校の北側に配置する。
小隊は小学校の西側から攻撃し敵を混乱させ北側に追う。
北に逃げた敵は、待ち構えていた本隊に殲滅される。
というものであった。

進軍の途中でハプニングがあった。
I.ketut (日本人)のピストルが暴発したのだ。
わざとではない、事故であった。
既に小学校の近くに来ていた。
気付かれたかもしれない。
ウィスヌ少佐は、作戦を急がせた。

夜中の一時頃、部隊の配置を終えた。
見ると、硝所の前には、立番中の歩哨がいた。
西側からの攻撃隊は、闇の中、校舎ににじり寄った。
10mの至近距離に近づき、歩哨を撃った。
歩哨が倒れこんだ。
銃声を聞き、10数名の仲間が校舎から飛び出て来た。
それをめがけて、軽機、小銃を乱射した。
何人かが倒れたが、多くは校舎に逃げ込んだ。
その直後、校舎の敵は全員武器を携行し、飛び出て来た。
そして、東の方に逃げた。
北の方に、追いこむことができなかった。
武器を奪うこともできず、作戦は失敗した。
# by yosaku60 | 2016-07-29 09:42 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ラクダ公園の流木

ラクダ公園に流れ着く流木は、誰も持っていかない。
で、少しづつ増える。
それらの流木を見ていると、何かに見えてくるからオモシロイ。

先ずは、豚;その1
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豚;その2
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豚;その3
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アザラシ
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サヨリ(魚)
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水木しげるの妖怪
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イソギンチャク
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神の手
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# by yosaku60 | 2016-07-28 07:29 | バリ島=ちょっとびっくり | Trackback | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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