
松井、荒木の両氏は、
なぜにプナルンガン村に居たのだろうか。
両氏の戦死は、ングラライの、
いわゆるププタンでの戦死だったのだろうか。
この二つの疑問を考えてみたい。
写真はマルガに祭られる1372名の英霊。
5万ルピア紙幣の肖像画に使われている、
インドネシア独立戦争の英雄、
ングラライもこの中にいる。
オランダとの独立戦争で彼が戦死したのは、
日本の敗戦から1年3ヵ月後のことである。
4年5ヶ月続いた独立戦争を思えば、比較的早い時期での戦死である。
なのに、なぜにこれほどまでにあがめられているのか。
彼の戦死は「ププタン」と呼ばれる勇敢な戦いであったからだ。
ププタンとは、バリ語で「終焉」を意味し、覚悟の自殺的戦死を意味する。
彼に率いられた96名の民兵は、全員マルガの地で玉砕しているのだ。
二つ目の疑問の答えになるが、
オレは、この96名の中に、松井、荒木の二人の日本兵がいたと思う。
なぜなら、ングラライの出身地は、マルガのあるバドゥン県であり、
率いた民兵は地元民(プナルンガン村も含まれる)である可能性が高いからだ。
さらに、マルガの英霊1372名の中に日本人12名の名があるが、
その中で出身の村の名前が記入されているのは、松井、荒木の二人だけである。

他の日本人10名は、単に jepang と国名が記入されているだけである。
次いで、一つ目の疑問、両氏はなぜにプナルンガン村に居たかということであるが、
隠し事をする必要がない理由で、堂々と村に住んでいたようだ、とだけは思う。
12名の日本兵の中で、出身地、生年月日の双方が判っているのは、
両氏を含めて3名だけだからだ。
ネット情報によれば、マルガに祭られる12名の日本人は、
日本の敗戦後、連合国にに捕らえられ捕虜となっていた収容所から脱走し、
ングラライの民兵としてオランダ軍と戦ったように書かれている。
が、オレは12名がみな同じ行動をとった者とは思わない。
もし、脱走してから村に来たのであれば、村にいた期間は約1年である。
後々まで村人に慕われる業績を残すには、期間として余りにも短かすぎる。
松井、荒木の二人は、日本の統治時代より村に住んでいたのではなかかろうか。
で、村人の生活に影響を与えれる立場にいたのではなかろうか。
三浦襄については多くのことが語り継がれている。
それなのに、松井、荒木の両氏について、語られるものは余りにも少ない。
日本人の誰もが、現地にこういう立派な銅像が建っていることを知らないのではなかろうか。
オレはもっと、知りたい。
近いうちに機会を作って、地元のお年寄りの話を聞いてみたい。