あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



ドゥユンビーチの今朝の360度

今日は日曜日、朝から雨...
が止んだのが、8時半...
8時を過ぎるとビーチの喧騒度が増す。
が、まあいいや、てんで、ビーチに行った....
のが、サヌールビーチのほぼ中央のドゥユンビーチ....
ってのが、こんなところ。
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まずは、モーニングコーヒーと朝食....
が、二人分合わせて、140円。
左がカミさん、右の背中がおばちゃん。。
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この店、本来ならば、ここで営業しなければならない。
が、こんなに奥まった所には、客が寄り付かない....てんで
海岸沿いの道路に出て来て営業している。
でも、いずれ、ひっこむことにことになるだろう。
それまでの仮店舗だ。
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店の前のビーチでは、孫娘のプトリーちゃん(左)が遊んでいた。
こういうところで、遊べる子供たちは幸せだ。
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おばちゃんの仮店舗の横に男どもがたむろしていた。
日曜日のビーチ遊びの客を待って張り切っている。
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その張り切り男どもの横のレストランでは、女どもが朝の掃除をしている。
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その女どものレストランの前の浜に降りてみた。
そして、ぐるりと360度、カメラを廻してみた。
まずは、胸まで海に浸かる釣り人達。
水平線に見えるのが、ヌサペニダ島。
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手前の海辺に家族連れあり。
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全体的には、こんな光景。
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右に目を転じると...
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ビーチから、浜通りを見上げると、彩色鮮やかなジュクン群。
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スピードボートが日曜の客を待ち...
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空飛ぶゴムボートも出番待ち...
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遊びから帰って来る客に冷たいビールをと、準備し待ち受けるレストラン出店...
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既にお客が集まり始めた。
ビーチ遊びには、ほど遠い体形のへんな外人さんだったり、
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朝から騒々しく喋る中国人だったり、
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今朝のドゥユンビーチは、ほんにマチャマチャでした。
# by yosaku60 | 2016-09-25 11:12 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

ハナちゃんからの嬉しい話

今朝のビーチ....
ハナちゃん(写真)と出逢った。
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ハナちゃんから嬉しい話があった。
2か月後の結婚が決まった....とのこと。

良かった。

つくづくそう思う。
つくづくだなんて....
何故にバリ人に、そんなに心を傾けるのか。

その理由を少しほざきたい(笑)。

そもそも私の人生だが、たいした努力をして来なかった。
なのに、今、幸せである。
が、それは運が良かっただけだ。
日本人として生まれた運もあった。
と思っている。

私は、たいした努力をして来なかった....
のに比べ、多くのバリ人は、とても努力している。
なのに、なかなか幸せになれない。

  (註)言っとくけど、ここで、「幸せ」とは何か?
     なんて、理屈はどうでも良い(笑)。

オレは、
頑張っている人を見ると、ついつい尊敬してしまう。
自分が頑張れる人間でないことの裏かえしだ。
ここ、バリには、頑張っている人がいっぱいいる。
オレからとれば、尊敬する人だらけだ。
その人が若ければ、援助したくなる。

ハナちゃんもそういう中のひとりなのだ。
ハナちゃんの苦労を少々語りたい。
知り合ってから、もう7年ほどになる。

ハナチャンの家...少々貧しい。
小学生の時から仕事をして家計を助けていた。
成人になって、朝も昼も夜も仕事をしていた。
が、ある日、仕事ができなくなった。
身体を壊したのである。
その壊し方が尋常ではなかった。
オレは、気になった。
「ハナちゃん、一回身体を調べてみたら」
てんで、オレは検査機関に引率した。
で、その結果だが、「異状なし」だった。
で、ハナちゃんの話を聞くうち、オレははたと思いついた。
精神の病、恋煩いではなかろうかと....
当時、ハナちゃんは、つき合っている彼氏がいた。
その彼氏、男前でとても女性にもてるらしい。
で、ハナちゃんは、いつも三角関係に悩んでいた。
てな、恋煩いである。
オレは、ハナちゃんと話した。
ハナちゃん、結婚したいのか.....「したい」
結婚しても、同じ悩みを持つだろう....「そう思う」
じゃ、なぜ、悩み多い道を選ぶのだ...「.......」
男は顔じゃない、ハートだ!....「そう思う」
今の彼、やめてしまえ、次をさがせ...「そうする」
てんで、ハナちゃんは、その男とおさらばした。
そして、だんだんと健康を取り戻していった。
それから2年、新しい恋人ができた。
その彼と交際し出して2年、このほど結婚が決まった。
今朝のハナちゃん、つくづくとオレに言う。
「私、幸せです」
そうか、そうか、おめでとうハナちゃん!!
結婚式は、11月半ば...
彼の故郷のkaja Kanginで行われる。
アグン山の北の海岸で、サヌールから3時間はかかる。
できるならば、参加してあげたい。
# by yosaku60 | 2016-09-23 10:03 | バリ島=人物往来 | Trackback | Comments(0)

バリ人に感謝する(つづき)

昨日のブログを読み、ほんの少し知ってる日本人(変な言い方)から、
知り合いのバリ人を参加させたいが、いかがかとの問い合わせがあった。
本人にも返答したが、ここでも返答したい。

止めた方が良い(笑)

昨日も書いたが、生徒は毎回変わる。
で、その日集まった生徒の程度を見て、その日その日、授業内容を変えている。
行ってみれば、ゆきあたりばったりの無茶苦茶なのだ。
無茶苦茶なので、聞くべき価値がない(笑)。

ということを前提に、授業を少々説明すると、
日本語初級、中級、上級の全てが混在することを念頭に
一時間半の時間を30分づつに区切って組み立てている。

最初の30分は、初級者のため....
私が勝手にべらべら喋る。
目的は、日本語を耳に慣らすため。
通訳してくれるエヴィが来た時に限られるが....
地球の話、気象の話、世界の国々、バリの独立戦争などなど、
自分の得意分野を喋る。

次の30分は、中級者のため....
私が話せるインドネシア語の範囲内で、
簡単な日本語を勉強する。

次の30分は、上級者のため.....
漢字や漢字の用法を勉強する。
これには、毎回自家製のプリントを配布する。

ということであるが、人が入れ替わっても、
一回勉強したことを繰り返すことがない。
毎回、新しいことを勉強することにしている。
正直言って、少々しんどい。

なぜ、毎回、新しいことを勉強するのか....
であるが、
写真の中央の黒いシャツの男性、
バグスと言う名の28歳のバリ人だが、
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彼だけは、一年前から、毎回参加している。
彼のために、同じ話を二度できないのだ。
ついでに書くが、昨日書いた...
何故、日本語を勉強するのですか?
のバグスの答えが「なんとなく」だったのです。
いろいろありますが、
こんなつまらない授業に一年以上通い続けてくれるバグス....
ありがたいことです。
# by yosaku60 | 2016-09-21 11:55 | バリ島=人生のかかわり方 | Trackback | Comments(0)

バリ人に感謝する

知らないバリ人から、オハヨウとかゲンキとか
話しかけられることが多くある。
これって、日本に、あるいは日本人に、
親しみを持ってくれているから、だと思う。
って、オレ、単純なのだ(笑)
は、ともかく、
日本に興味を持ってくれる人が多いこと、
ほんにありがたいことである。

私は、ボランティアで週に一回、日本語を教えている。
先日、生徒たちに、
何故、日本語を勉強しようと思ったの?
との質問を投げかけてみた。
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その返答...
多かった順に理由を上げてみると。

1、日本で働きたい
2、日本に留学したい
3、日本に観光に行きたい
4、アニメから日本語に興味をもった。
5、日本の文化を学びたい
6、なんとなく

であった。
理由がどうであれ、
日本語を学ぼうとする彼ら彼女らに感謝している。
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私のクラスは、私もボランティアだが、
生徒たちも授業料をおさめなくとも良いクラスである。
要するに無料のお試しクラスなのだ。
で、毎回、生徒たちが違う。
入れ替わり立ち替わり初めての人が来るのだ。
日本語を少し話せる人、初めて日本語に接する人、
ひらがなを読める人読めない人、
毎回、ばらばらである。
で、教えるなんてできない。
私が一方的に日本語をべらべらしゃべるだけだ。
よく、こんないいかげんな授業に生徒が来てくれるのだろう。
これもありがたい! 
# by yosaku60 | 2016-09-20 10:02 | バリ島=人生のかかわり方 | Trackback | Comments(0)

本日は、マニスクニンガン

本日は、マニスクニンガン。
お盆が終わったことを祝って、楽しく語らう日だ。
本日をもって、いわゆる日本の「お盆」は、全て終了する。
輪廻転生のバリヒンドゥーにとっては、「お盆」は重要である。
朝のお祈りにも全てが終わった安ど感がみてとれる。
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バリの宗教行事は、全て曜日で決まっている。
マニスクニンガンは、必ず日曜日である。
公の店、そして学校も休日...
人々は早朝からビーチに繰り出し、語らう。
写真は、今朝の7時のマルタサリビーチ。
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日本のお盆に相当する、ガルンガン&クニンガン....
その祝い事全体の曜日を書き出してみる。

スギアンジャワ(木曜日);  先祖(先祖がジャワ人の場合)が家に帰って来る日。
スギアンバリ(金曜日);    先祖(先祖がバリ人の場合)が家に帰って来る日。
プニャジャアン(月曜日);   お菓子を作る日。
プナンパハン(火曜日);    豚を殺して料理する日。

ガルンガン(水曜日);    ガルンガン祭礼の日。

マニスガルンガン(木曜日); ガルンガンの余韻を楽しむ日。
ウイハンジャワ(日曜日);   祖先(ジャワ人の場合)の霊が天に帰る日。
ウイハンバリ(火曜日);    祖先(バリ人の場合)の霊が天に帰る日。
プナンパハンクニンガン(金曜日);  クニンガンの食べ物を準備する日。

クニンガン(土曜日);    クニンガン祭礼の日。

マニスクニンガン(日曜日)  お喋りして楽しむ日。   
       

ということで、バリ島...
神様、ご先祖様のおかげで、今日も平和です。
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# by yosaku60 | 2016-09-18 10:02 | バリ島=慣習・伝統 | Trackback | Comments(0)

本日はクニンガン

本日は、クニンガン。
日本で言えば「お盆」.....の最終日。
お手伝いさんのカデさん。
クバヤを着て、おしゃれして来てくれました。
カデさんは真面目です。
私の家で働き始めて、2年。
カデさんの笑った顔の写真、初めて撮れました。
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# by yosaku60 | 2016-09-17 17:47 | バリ島=慣習・伝統 | Trackback | Comments(0)

自分のこと(その7)

昨日、あふりか丸乗船の話をしたが、書き忘れたことがある。
ある上司から将来を左右するような教えを受けたことだ。
事実、その後の私の人生を変えてくれた。

教えてくれたのは、二等航海士(秋光正健さん)だ。

私は三等航海士、秋光さんは二等航海士。
部屋が隣だった。
沖待ちで仕事がなかった、ある日...
私は、二等航海士の部屋を覗いた。
秋光さんは、机に向かい何やら仕事をしていた。
挨拶しながら、近づいて見ると,
貨物の積み付けプランをたてていた。

貨物の積み付けプランとは、....

会社より、
1、どこの港で
2、どこの港行きの、
3、どんな貨物が、
4、何トンある
との情報がどんどん来る。

その情報を集めて、
1、どの場所に、
2、どれほどのスペースを使って、
3、どういう風な積み付けかたをするか、
の最適なプランを練ることである。

貨物、船舶、港を全て熟知しないとプランを練れない。
で、経験の多い、一等航海士の仕事である。
が、二等航海士の秋光さんが、それをしている。

「セコンドオフサー(二等航海士のこと)」
「なぜ、そんな仕事をしているのですか」

私は、秋光さんに聞いてみた。
その時の秋光さんの言葉に私は衝撃を受けた。

サードオフサー(私のこと)!
仕事というものは、与えられてするものではない!
与えられた仕事をするだけでは、それは「仕事する」なんて言えない!
「仕事をこなしている」だけだ!
それではいけない!
仕事というのは、自分で見つけてくるものだ!

今朝、私は、一等航海士のところに行き、
「私は余力がいっぱいあります」
「何か仕事をください」
と言ったら、
「積み付けプランをたてて欲しい」
と、頼まれたのだ。
で、喜んで引き受けたんだヨ!

これを聞いて、
今日は、ヒマで嬉しい...
何をして遊ぼうか....
などと考えていたオレ...
恥ずかしくなった。

その後の私。
自分で仕事を求める方向に変わったんです。
昔の私を知っている方、そんな訳なのです。

秋光正健さん!
マーロンブランドのような風貌の方でした。
その後も重ねてお世話になりました。
今頃、どうされているのだろうか。
くしゃみしておられるかも...
# by yosaku60 | 2016-09-16 09:58 | 日本=人生のかかわり方 | Trackback | Comments(0)

自分のこと(その6)

時々、昔の自分を振り返り、
「自分のこと」と題して書くことを宣言してきた。
前回の「自分のこと(その5)」は、今年の1月に書いた。
8か月も開いての「自分のこと」である。
前回は、4等航海士を終えるまでを書いている。
今日は、そのつづきである。

昭和41年10月、私は3等航海士に昇格した。
会社より指示を受けたのは、「あふりか丸」乗船である。

あふりか丸、約一万トン.....
貨客船に分類される、いわゆる「移民船」であった。
次の絵は、志賀源吾さんが描いた昭和33年当時のあふりか丸である。
志賀さんは、商船三井の船乗りであったが、後に画家に転向した人で面識がある。
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移民船の時は、約700名のお客を乗せていた。
が、私が乗船した時は、移民船としての使命をほぼ終え、
アフリカ東岸定期航路船として就航していた。

日本での寄港地は、
横浜、清水、名古屋、神戸....
途中で、香港、シンガポールに寄り、
アフリカ東岸の諸港を目指すという航路であった。

アフリカ東岸とは、
ケニア国; モンバサ港
タンザニア国; ダレスサレム港、ザンジバル港、タンガ港、ムトワラ港、
モザンピーク国; ベイラ港、ローレンソマルケス(現在のマプート)港、
南アフリカ国; ケープタウン港、ポートエリザベス港、イーストロンドン港、ダーバン港、
であった。

アフリカ西岸航路に比べ、寄港が少なく、
スケジュールもゆったりしていて、労働者(黒人)の性格もおとなしく、
船乗り生活を満喫した思い出がある。

そんな思い出の中から、いくつかひろって見る....

1、 モンバサ港での象牙

当時、象牙は自由に日本に持ちこめた。
一本、一万円であった。
できるだけ、まっすぐなものを見つけて購入し、
航海中、それを磨き、日本に着いた時は、
多少磨いてない場所を残した上で、税関に申告する。
そうすると、「自分用」ということで、無税で陸揚げできた。
今なら一本20万円するだろうに、良い時代だった。

ところで、私だが、
象牙を買わず、猿を一匹買った。
いくらで買ったか、値段は忘れた。
その猿は長生きし、珍しい猿だったらしく、
死後、石川県小松市の芦城公園で剥製にされた。

2、ローレンソマルケスでの柔道の道場開き

ポルトガル人の経営する「道場開き」に招かれ、
乗組員の中に有段者がいたので、彼を連れ参加した。
(柔道主のポルトガル人は一級だった。)
私は、唐手の演武を披露した。
唐手を初めて見たからだろう、拍手喝采(本当ダヨ)だった。

3、ケープタウン港での伊勢海老捕獲

近くの岸壁で、伊勢海老が捕れた。
風呂桶でボイルするほどに、いっぱい獲れた。
2~3匹食べると腹が膨れるほどの大きさの海老だった。
あれほどの食贅沢をした経験は、未だにない。
# by yosaku60 | 2016-09-15 10:30 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

ワナサリの戦いのブンアリ(梶原)中尉

日本の敗戦が決まっても、バリ島に残り、
インドネシア独立戦争を戦った約20名の残留日本兵....
その中でも特に著名な兵士を選べば....

1、最後まで戦い抜いて生き残った平良定三
2、ングラライ将軍と同位の中佐で日本軍をまとめた堀内秀雄
3、マルガラナで玉砕し神格化された松井久年
4、松井と行動を共にし神格化された荒木武友
5、数々の戦いで勇名を轟かしたブンアリ(梶原)

の5人があげられる。

そう....
ブンアリだけが、日本名が解っていない。
そのブンアリだが、独立戦争を戦った元兵士に、
「日本兵の誰を知っている?」
と聞くと、真っ先に挙げられるのが「ブンアリ」である。

それに数々あるバリ島の独立戦争史には、
必ず、ブンアリの名がある...それほどに著名である。

そのブンアリであるが、ワナサリの戦いで戦死している。
部下を殺され怒ったブンアリが阿修羅のように敵に突撃して行った!
と語り継がれている。

   (訂正)
   過去の私のブログで、ブンアリと一緒に戦死した日本兵(ブンマデ)
   の日本名を「高木米治」としたが、間違いであった。
   高木米治は、マデプトラという名であり、マルガラナで戦死している。
   ブンアリと同じくワナサリの戦いで戦死したブンマデの
   日本名は「原田」もしくは「渡辺」と思われるが....わからない。

ブンアリのこと、まだまだ全部調べ切れていない。
ブレレンの山間の小さな村で、バリ人に戦い方を教えたはずだが、
私は、まだその村に辿り着けていない。

その村がどこか解ってから、ブンアリをまとめて書きたい...
が、書けるだろうか?
ブンアリを語るには、気構えが必要である。
山あり谷ありの物語が多すぎるのだ。

まあ、ということで、今日は、
先日、カミさんと一緒に探しに行って来た....
ワナサリの戦いのモニュメントを紹介する。
村の最北端のお寺の境内にそのモニュメントがあった。
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1946年10月5日の...
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ワナサリの戦いでは、16名の独立軍兵士が戦死している。
その中に、ブンアリとブンマデが名が刻まれている。
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# by yosaku60 | 2016-09-14 11:38 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

バビグリンの話...

バリの食名物、バビグリン(Babi Guling)...
日本風に言えば、豚の丸焼きのこと。

もともと、それほど美味しいものではないが...

昔、昔、フイリッピン人と4年間、一緒に船に乗っていた。
お祝いごとがあったとき、フイリッピン人は、豚の丸焼きを食べたがる。
いや、食べたがるのではなく....作りたがる。
豚の丸焼きは、作るのが楽しいのだ。

その作り方....
腹を割いて内臓を取りだし切口を縫う。
口からお尻の穴に鉄棒を通す。
縦割に半分にしたドラム缶を横に置き両端に受けを作る。
その受けに鉄棒を置く。
その鉄棒を回転させながら豚を焼く。

が、火で焼いてはならない。
火を遠ざけて、熱で焼くのだ。
でないと、こんがりと焼けない。

6時間ほどかけて、ゆっくり焦がす。
時々、豚に水をかける。
水をかけると、水蒸気があがる。
熱くなりすぎるのを防ぐための水かけだと思うが、
水かけの本当の意味は知らない。

まあ、そんなんで...
その焼きあげる時間が楽しいのだ。
豚をくるくるとゆっくり廻すのも少々疲れる。
時々、人が交代する。
その人の中にギターを持ってきて歌う人が現れる。
特性のドラムを叩く人もいる。
豚の周りに人が集う。
てんで...
ストレスから解放された乗組員達がいる、
のを見て、船長として、嬉しかったものだ。

彼らに言わすと、豚は子豚ほど美味しいという。
食料を仕入れるのも船長の仕事...
で、オレは、赤ちゃん豚を仕入れるようにしていた。
当時(30年前)世界のどこでも、
一匹100~200ドルで、仕入れてたように記憶する。

ああ、そうそう、豚の丸焼き...
バリでは、「バビグリン(Babi Guling)」と言うが、
フイリッピンは、豚の丸焼きを「レチョン」と言う。

さて、
今日は、なんで、豚の丸焼きの話をしたかと言うと、
昨日、カミさんと、バビグリンを食べに行ったからだ。
それも本場、タバナンのバビグリンを.....

こんな店の、
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こんな豚の、
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一人分400円のこんな料理。
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世間じゃ、花より団子...と言う。
はぐれ者のオレは、団子より???
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# by yosaku60 | 2016-09-13 10:53 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

成長するプトリーちゃん

ヨチヨチ歩きの頃から知ってるプトリーちゃん...
この写真は、多分、2年前(だったかな?)
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プトリーのお母さん、お父さんとは会ったことがない。
事情があるのだろう、一緒に住んでいない。
何故、一緒でないか聞いたことがない。
よくあるケースだからだ。
昔も今もおばあちゃん、おじいちゃんと一緒に暮らしている。
だからだろか、彼女はほとんど笑わない。
シャイなのか、無口である。
それが、先日、初めてプトリーから喋ってきた。

「何を食べる?」
「何を飲む?」

で、注文すると、それを運んできた。
おばあちゃんの手伝いができるようになったのだ。

その時、撮った、次の写真....
一応、箒を持っている。
掃除を手伝っているつもりなのだろう。
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時々、大人っぽく見えるプトリーちゃん。
将来は、美人になって、男どもを悩ませるのだろうなぁ~
# by yosaku60 | 2016-09-12 09:55 | バリ島=人物往来 | Trackback | Comments(0)

ノフィア先生とお別れ

夕べ...ノフイア先生、バンドンに帰る。
古巣のバンドン教育大学でちょっと仕事(ってなんだろう?)をし、
今月末には、日本に戻るそうな。

日本での研究は、あと4年続くそうな....大変だ!
いろいろあったけど、今が幸せという....良かった!
ノフイア先生と最後の食事は、中国料理.....高い!
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# by yosaku60 | 2016-09-11 07:58 | バリ島=知人の訪バリ | Trackback | Comments(0)

ノフイア先生、講義終了祝い

ノフィア先生の講演は、昨日のお昼でした。
無事に終わったので、内々の打ち上げ会....
場所は、レストラン「ムティアラ」。
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二次会はナイトパブ「リラ」。
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# by yosaku60 | 2016-09-10 16:33 | バリ島=知人の訪バリ | Trackback | Comments(0)

オレの先生、日本より来る

ノフィアさん....
もう10年前になる....
オレが日本いた頃のインドネシア語の先生....
が、オレの家に来てくれた。
土曜日までいてくれる。
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彼女は、現在、金沢大学大学院「博士課程」在学中、
バリに来た目的は、「学会」参加。
学会名......日本語研究国際教育学会

2年に一度、世界のどこかで「学会」を開くそうな。
4年前は名古屋、2年前はシドニー、今年がバリだそうな。
400人ほど、世界から集まるそうな。

彼女の故郷は、インドネシアのバンドン。
バンドンで使われる言葉は、スンダ語。
彼女の講義は、「スンダ語と日本語」だそうな。

どんな話なんだろう。
ちょっと、聞いたが、チンプンカンプン!!
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# by yosaku60 | 2016-09-09 07:42 | バリ島=知人の訪バリ | Trackback | Comments(0)

早い!マルタサリの浮き桟橋造り

マルタサリの浮き桟橋造り...
昨日は、ガルンガン、
今日は、マニスガルンガン、で、作業は休止。
その前の二日間で、もうこれだけ工事が進んだ。
相当に早い!
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# by yosaku60 | 2016-09-08 10:54 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

世間知らずってことを思い知らされました。

d0083068_994278.jpg先日のレストラン・ムティアラ...
お客様どうしがなにやら騒いでる。
何だろう? と聞くと、
ピーナッツの五つ玉が出た、と言う。
それがどうしたの?
なんて聞ける状態ではないほどに...
みんな、興奮している。
五つ玉の希有さ程度を初めて知る。
4つ葉のクロバーなら知ってたけど。
ピーナッツの五つ玉って知らなかった。
てなふうに、他人が知っていることを
知らないってことよくあるんです。
オレって、世間知らずなんだな~
あらためて、思い知らされました。
# by yosaku60 | 2016-09-07 09:12 | バリ島=その日のできごと | Trackback | Comments(0)

5人と一匹が同時乗車するバイク

今朝のビーチで、こんな一行と出会いました。
なんと、5人と一匹が乗る、バイクです。
バイクの4人乗りは、時々見ます。
が、5人乗りとなると稀です。
そんな5人乗り...
しかも、一匹の犬までも!!
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# by yosaku60 | 2016-09-06 09:56 | バリ島=ちょっとびっくり | Trackback | Comments(0)

40年前に作った天球儀

40年前、私は航海士だった。
その頃に作った、天球儀を紹介したい。
見本があった訳ではない。
苦心作であることを強調したいんです(笑)。

この天球儀で何が解るか。

夜空に見える星の位置というものは....

1、当日の期日、
2、その時の時間、
3、観測者の位置、

の三つから計算されます。

で、この天球儀をくるくる廻しながら、三つの情報を入れ、
その日その時その場所で見える星を一覧できるためのものです。
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(航海士にとっての天球儀の使い道)

今は、GPSがあるので、陸上であろうと海上であろうと、現在地はすぐにわかります。
45~50年前は、GPSなんてありませんでした。
 
 (註) あるにはあったのですが、米国の軍事目的にあるだけで、
     それを利用するには、米国のコンピューターを買わなくてはならず、
     当時の価格は、2千万円という高額なものでした。

では、どうして現在位置を知るか....
というと、太陽や星を観測して、現在位置を計算していたのです。
観測は、太陽や星の高度を測るのです。
特に、星は、同時にいくつもの星を観測できるので、
それらの組み合わせから、正確な現在地を計算できるので重要でした。

ここで、星の高度というのは、
水平線から、その星までの角度のことです。
水平線が見えないと、角度が測れません。

水平線が見え且つ星も見えるとというのは、一日に2回、
それも短い時間だけです。
日没後の15分、日出前の15分だけです。

が、星があっても、その星が雲に隠れていては、観測できません。
困るのが、雲と雲の間に、ポツンと星が現れた場合です。
周りの星との関係が見えないので、星の名前を知るのが難しいのです。

そんな時!
この天球儀が活躍するのです。


(苦心したところ;その1)

そういう場合に利用する天球儀ですので、
星の高度は、地球から測定した高度が現れるようにしておかねばなりません。
星よりも外の天空から見た星を描き、
測定は星よりも内の地球から見たものにしなければならないのです。

どうしたら、こういうのを作れるのだろうか。
いろいろ考えました。
鏡に映る自分の顔が右左逆になります。
が、上下は逆になりません。
何故に、右左だけなのでしょう。
そのことを思いだし、やってみました。

天空上の星の位置は、地球上と同じように、
経度、緯度で表されます。
但し、経度ではなく赤経と呼ばれ、緯度ではなく赤緯と呼ばれます。
で、上下の赤緯ではなく、横方向の赤経のみ逆転して描いてみたのです。
たまたま、鏡の逆転投影を思い出し、そうしてみたのです。
と、見た目が天空図なのに、高度が地球上から見たものに描けたのです。
なぜに、そうなるのか、今でもわかりません。
が、当時、とても嬉しかったことを覚えております。
理屈なんてどうでもいいんです、できさえすれば....(笑)


(苦心したところ;その2)

天球儀ですが、旋盤で木材を球に削るのは、とても難しいのです。
どうしても楕円球になるのです。
完全な球体にするには、手で磨かねばなりません。
長い時間かけ、サンドペーパーで磨きあげました。
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(苦心したところ;その3)

水平線上に現れる星を表示するのですから、
天球儀の半分が見えるような(隠れるような)箱を作らねばなりません。
(正確に言えば、鉄の輪っぱの上面が水平線)
当時、そうした箱と、球体とを同時並行で作っていました。
削りあげる球体の大きさが決まらないのに、
箱のサイズ(穴の高さ)を決めのに、いろいろ迷いました。
が、思いついたのです。
写真のように、中心にガーゼを入れて、高さ調整をするのです。
このガーゼは、球体を傷つける保護にもなります。
ちょっとした、良いアイデアでした。
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(苦心したところ;その4)

高度を測る、鉄輪です。
鉄板を切って、その二つを溶接して作りました。
私は、これを作る技術がありません。
同じ船員のエンジニアーに作ってもらったのです。
本人曰く、細かな溶接を含め、とても難しかったそうです。
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(各種計算式の表示)

ということで、作った天球儀....
箱の周囲に天体観測や航海術に必要なデータを書きました。

先ずは星の名前の一覧表。
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星の等級と航海術計算式
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球面三角形公式
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球面三角形微分式
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自分で言うのもなんですが、
作った時から骨董品のような風格がありました。
40年経った今も、その風格があるように思うのですが...
慢心すぎるでしょうか(笑)。
# by yosaku60 | 2016-09-05 12:30 | 日本=船員・船長時代 | Trackback | Comments(2)

変貌するマルタサリビーチ

8年前の....
私がバリに来た頃のマルタサリビーチ...
その東側の地点.....
で、現在、マルタサリーバルーと呼ばれる処...
は、まだ埋め立て中であった。

その後、埋め立てが終わり、
石が積まれて、護岸工事も終わった。
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ある日、ワルンが一軒進出してきた。
4年ほど前だったと思う。
そうしたワルンが、少しづつ増え、賑わうようになった。
2年前、私も時々、そこに行くようになった。
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が、先月のこと....
そのワルン群が突然に引越しを言い渡された。
こういう処に....である。
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海が見えず、寂しいが、
過去の付き合いもあって、今朝も此処に行って来た。


さて、
何故、引越しさせられたのか!
こういう工事が始まるためである。
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マルタサリビーチは遠浅海岸だ。
相当、沖に出ないと、水深の深いところに行き着かない。
そこまで橋を伸ばして、その先に桟橋を作ろうというのである。
観光目的の連絡船(ボート)発着の桟橋である。

サヌールは、観光地である。
他の観光地と海路で結ばれているが、残念ながら桟橋がない。
ボートに乗る際は、じゃぶじゃぶと海に入って乗船しなければならない。
当然だが、下半身が、ずぶぬれになってしまう。

桟橋ができると、それが解消する。
バリ島の工事は、雑であるだけに、案外と早い。
多分、一年後には、桟橋ができるのではなかろうか。

私がバリに来て、もっとも足を運んでいるマルタサリビーチ。
これからも、どんどん進化していくようだ。
昔がなくなる寂しさもあるが、変貌を肌で感じる楽しさもある。
私のバリ島生活....いろいろあって、なかなか(意味不明)である。
# by yosaku60 | 2016-09-04 09:46 | バリ島=地方・景勝地 | Trackback | Comments(0)

若い二人の門出のムチャル

日本で、「お祓(はら)い」にあたる神事....
バリでは、同じ意味あいのムチャル(Mecaru)というのがある。
昨日、バトブランの地に、コマン・コミン夫婦が店舗兼住居を構えた。
若い時に勝負しろ!
と二人を焚きつけてきていたオレに....
コマンが崖から飛び降りる気持ち(本人弁)で応えてくれた。
起業一年目の発展的移転である。
で、新しい店舗のムチャル神事があった。
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ムチャル神事には、親類が寄ることになっている。
シンガラジャから、二人の両親がかけつけてくれた。
右より、
コマンの母親、コマン、コミン、カミさん、オレ、
続いて、
コミンの父親、コミンの母親、コマンの父親。
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コマンのパソコン・携帯電話修理業は、お客が増えて来ている。
コミンの出張マッサージも、お客が増えて来ている。
店舗は広く、住居も広い....
若い二人、どんどん前に進んで欲しい。
# by yosaku60 | 2016-09-03 09:57 | バリ島=慣習・伝統 | Trackback | Comments(0)

ヌサマラ村の戦いの6月2日が解せない理由(その2; ジャワ海軍上陸地点との関係)

島村中尉が消息を絶ったヌサマラ村の戦い...
のジェンブラナ県、ヌサマラ付近の地図を見て欲しい。
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中央にヌサマラ村がある。
その右にPulukan村というのがある。
そこには、オランダ軍の硝所があった。
ジャワから来たマルカディ大尉は、その硝所を襲撃している。
戦いがあったのだ。
戦いがあれば、必ずその記念モニュメントが残されている。
で、Pulukan村に行ってみた。
あった! 
村の外れは山路への道路の行き止まりでもあった。
そこに、こんなのがあった。
が、残念ながら、
戦いがあったということだけ書いて、その期日が抜けている。
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本(Bali Berjuang)には、次のように書かれている。

......

Pulukan村の敵硝所襲撃を終えた頃、
マルカディ大尉は、Gelarの味方ゲリラ基地(写真)....
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が、敵の大攻撃を受けた....
空からは飛行機で、地上からは熱帯地専門部隊を投入してきた....
で、Gelarの青年戦線は、完全に粉砕された....
との情報に接した。

ちょうど、その頃、マルカディ大尉は、ングラライより、
軍を東に進めて、ムンドックマランまで来てほしいとの手紙を受け取った。

  (註) ングラライ側の記述によれば、先にブログで書いたように、
      ングラライの使者のブレオがマルカディ大尉に会えた場所を
      Yeh Embang としている。
      Pulukan村とYeh Embangは、約10キロしか離れていない。
      地理的に、二つの証言は合致している。

マルカディ大尉は、ングラライの要望に応えるため、
膨れ上がった隊を三つに分けた。

一つは、マルカディ大尉が引率し、ムンドックマランに向かう。
一つは、当地での次の戦闘に備える(島村中尉隊)。
     (註)密告により敵に襲撃される(Nusa Mara村)
一つは、余剰として、ジャワ島に帰る。

........

ということである。
これらを解って、もう一度最初の地図を見て欲しい。

海岸に、マルカディ大尉隊の上陸記念モニュメントがあるじゃないか!
地元民に聞くと、マルカディ大尉軍がここに上陸したという。
マルカディ大尉は、ギリマヌクの南方海岸に上陸したはずだ。
なぜ、こんなところに上陸モニュメントがあるのだ!

とにかく行ってみた。
なーるほど、こんなのがあった。
潮が引いているので岩場に出ているが、
潮が満ちると、海上に浮いて見えるそうな...
そのとおりの佇まいである。
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さて、解っていただけるだろうか。
ここ2、3日のブログは、
「マルカディ大尉のバリ島上陸」の周辺を掘り下げて書いてきた。
地元民が、上陸地点は「此処!」と言い張るので、
それが本当かどうか、過去のブログを振り返り、
いろいろな本を読み直してきたのだ。

その結果、
Enjung Pulukan 海岸のモニュメントは、
単なるモニュメントであり、史実を受け継ぐモニュメントではない、
と結論付けることにした。

では、何故に、この地に、こんなモニュメントがあるのか...
実は、この海岸沿いに、Puri Dajuma Beach Resort というホテルがある。
そのホテルから見ると、このモニュメントは格好の場所にある。
ということで、ホテル側が観光用に作ったのではなかろうか。
純粋な地元民は、それを史実として語り継がれていできた....
のではなかろうか。


んまあ、こういうのがあるので、
島村中尉が消息を絶った原因となったヌサマラ村の戦い...
の期日が、1946年6月2日になっているのも、
「多分、いい加減なのだろう」と思い始めているんです(笑)。
# by yosaku60 | 2016-09-02 11:10 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

Markadi 大尉隊のバリ島上陸の真相

Markadi 大尉隊のバリ島上陸を少々詳しく書きたい。


マラン海軍司令部は、島々の部隊編成を次の三つに分けた。

  1、カリマンタン派遣; 第4艦隊所属、Ziakaria大佐指揮
  2、セレベス派遣; 第6艦隊所属、Aris大佐指揮
  3、小スンダ派遣; 第5艦隊所属、Munadji大佐指揮

ここでの兵は、
カリマンタン派遣軍は、カリマンタン島出身者で、
セレベス派遣軍は、セレベス島出身者で、構成されたが、
小スンダ派遣軍は、小スンダ島民出身者がおらず、
スペッシャルスタッフの集まりである小部隊で構成された。
このスペッシャルスタッフの小部隊のひとつが「Markadi大尉隊」であった。

小スンダ派遣軍は、
バリ島上陸作戦を次のとおり第一波~第三波とした。

① 第一波部隊は、Woroka中尉が指揮し、
敵の目をバリの北側に向けさせるため、
バリ島北海岸のCelukan Bawang に上陸する。

② 第二波部隊は、Markadi大尉が指揮し、
口径7.7の機関銃3挺と小銃84挺及び鄭弾筒を持ち、
Candikusuma と Cupel 間付近に上陸する。

③ 第三波部隊は、本隊(司令部)である。
1946年6月29日を上陸日とする。

この中で、第一波部隊の上陸については、過去のブログで書いて来た。

第三波部隊の上陸は、
1946年7月1日、Tukad Aya海岸に上陸したものの、
待ち構えていたオランダ軍からもの凄い攻撃を受け、
司令官3人(Sastuhadi大尉、Sugiharto大尉、Suryadi大尉)が殺され、
生き残った者は逮捕されるという散々な目に合い成功しなかった。

で、これから語るのは、第二波部隊の上陸である。

第二波部隊の上陸....

実は、この第二波部隊の中に、
Markadi大尉とMuhadji中尉の二人がいた。
Markadi大尉は、部隊長であり、
その部下として、Muhadji中尉がいたということだ。

第二波部隊は、
6トンクラスの船、4隻でジャワ島バニュワンギ港を出港した。
しかし、海が荒れ、そのうちの一隻だけ(Muhadji中尉の乗る船)が
バリ島に着いた。

他の三隻は、途中で風を掴めなくなり海上で立ち往生してしまったのだ。
オランダ軍は、立ち往生した三隻に向かって機関銃弾の雨をふらした。
立ち往生していた内の一隻がMarkadi大尉の乗る船であった。
その船にオランダ軍のモーターボートが近づいて来た。
海上での戦闘が始まった。
Markadi大尉の兵隊が投げた手榴弾が爆発し敵船は沈没した。

で、その後、三隻は、一旦バニュワンギ港に戻った。
そして、二日後、再度バリ島上陸に挑戦した。
今度は、ギリマヌク南方のPunginuman村に上陸できた。
これが巷間言われる、Markadi大尉隊のバリ上陸の経緯である。

......が、

つじつまの合わないことがあるのだ。
それは、明日のブログに書く。
# by yosaku60 | 2016-09-01 14:41 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

過去のブログの修正(Muhaji中尉とMarkadi大尉)

ジャワ海軍のMarkadi大尉がバリ島に上陸した日と場所を検証している。
それに先立ち、以前に書いたブログ.....
2015年8月31日、ジャワ島からの援軍「Markadi大尉隊(その1)」...
の内容を修正したい。

まずは、Pulungan Batu にある、
ジェンブラナ県ゲリラ基地(写真)である。
Pulungan Batu と現在の地名を言っても誰にも通じないことが解った。
「Gelar ゲリラ基地」と書くべきであった。
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戦いに加勢したジャワ海軍であるが、
次のとおり、Muhaji海軍中尉と刻まれている。
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私は、この Muhaji を Marakadi と勝手に読み替えていた。
が、Muhaji と markadi 全く別人であることが解った。
過去のブログは、触らないでおくが、ここで修正した上で、
次のブログで、二人の関係を掘り下げてみたい。
# by yosaku60 | 2016-09-01 09:48 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ヌサマラ村の戦いの6月2日が解せない理由(その1;ピンダ証言)

島村中尉が消息を絶ったヌサマラの戦い....
そのモニュメントの日付が、1946年6月2日と記されていることが解せない。
検証したい。
島村中尉は、ジャワ海軍のマルカディ大尉に付いてバリに来た。
ということは、マルカディ大尉の行動を探れば、それが解る。

マルカディ大尉がバリ島に上陸した期日であるが、
ングラライ軍参謀のピンダ中尉が、詳しく書いている。

.........

(ピンダ中尉証言)

我々がムンドックマランに居た時(1946年4月中旬~5月上旬)のことである。
ングラライ将軍は、ジャワ海軍の援軍を心待ちにしていた。
そんな時、ギリマヌクの近くに、
マルカディ海軍大尉が率いる陸戦隊が上陸したとの報が届いた。
将軍は、早急に迎えに行くように、ジョコルダ・ングラに指示した。
ジョコルダ・ングラは、別名、ブレオと呼ばれていた。
ブレオは、マルカディ大尉に会いに行くため、
村人に変装し、森や村を抜け、ジャングルを歩いた。
10日後、Yeh Embang 村でマルカディ大尉に逢うことができた。

 
  (註)このYeh Embang 村の位置であるが、
     ギリマヌクから50キロと遠く、ここまで進軍して来ていたのだ。
     が、同時にそこは、ヌサマラ村から5キロの至近でもあった。
     ブレオがマルカディ大尉に会えた日であるが、
     記述がないものの、4月25日~5月5日の間であったと思われる。


以後、マルカディ大尉隊は、ブレオに案内され、ムンドックマランに向かった。
が、ムンドックマランの本部がオランダ軍の襲撃を受け(5月11日)、
ングラライは本部をムンドックマランからベンケルアニャールに移動した。
マルカディ大尉がングラライに会えたのは、そのベンケルアニャールの地であった。

...........

島村中尉がマルカディ大尉隊と分かれて分隊を作ったのは、
ングラライの使者のブレオがマルカディ大尉と会った頃と思われる。
であれば、4月25日~5月5日の間であると思われる。
同時に、その地は、ヌサ村に近かった。
なのに、島村中尉分隊の戦いがあったのは、6月2日。
敵から逃げ回りながら戦うゲリラ戦にあって、
一か月以上もの間、同じ地に潜んでいたなんて、解せない。
# by yosaku60 | 2016-08-31 10:58 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

ヌサマラ村の島村中尉の調査報告

ジャワ海軍のマルカディ大尉から残留の指示を受けた島村中尉隊....
を調査しに、ヌサマラ村に行って来ました。

ジェンブラナ県の Rambut Siwi 寺...
この寺は、バリ島からジャワ島に渡るために、
ギリマヌク港に至る途中にあって、道中の無事を祈る有名なお寺ですが、

そのRambut Siwi 寺を左に見て、右の田圃に入る道に行き、
それから約5キロ北上した行き止まりにある村がNusa Maraです。

そこに、こんな立派なモニュメントがありました。
まだ、ま新しいので、建て替えたのでしょう。
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村人にモニュメントの意義を聞いた処、
1、休息中にオランダ軍に襲われた。
2、襲われた場所は、ここよりもっと山に入った処であった。
3、モニュメントは、村の外れのこの位置に建てた。
とのことであった。
語られる史実どおりである。

が、戦死者はいなかったのか...の問いに、「いなかった」と言うし、
(Ngatimoという名のジャワ人兵士が戦死している筈)
ボスは日本人だった筈だが....の問いに、「知らない」と言うし、
それに戦いのあった期日であるが、1946年の4月下旬~5月上旬であるべきが、
モニュメントには、次のとおり、6月2日になっている。
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もっと、知りたい、詳しい人を紹介してくれ.....というと、
村人が口を揃えて言う人物がいた。
Gusti Agung Ketut Mendera である。
5キロ離れた、Desa Yeh Embang Kangin の
バンジャール Tibu Sambi に住んでいるとのこと。
会いに行って来た.....この人だ。
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現在、87歳、
シンガラジャの陸軍士官学校で日本人から教育を受けた....
独立戦争にも参加した、ベテランと呼ばれる退役軍人だ。
独立後は地域の学校の校長先生をしていたのとこと。
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彼曰く
1、Nusa Maraの戦いがあった時は、自分はまだシンガラジャにいた。
2、その後、郷里に帰って来て、独立軍に入ったので、詳しくは知らない。
3、日本人がいたこと、戦死者がいたこと、本から知るだけだ。
4、Nusa Mara でオランダ軍に駆逐された味方兵は、
  東に向けて散りじりに逃げたと聞いている。
5、その後、どうなったかは、知らない。

ということで、
島村中尉は、東に向けて逃げたものの、その後の消息は全く分からない。
どこかで殺されたのだろう。
M,Shimamura をバリ島で戦死した残留日本兵のひとりにカウントしたい。

6月2日という戦闘日が解せない理由は、明日のブログに書きたい。
# by yosaku60 | 2016-08-30 11:32 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

トニッ.....は、昔も今も可愛い

バリ島に住むことの値打ち....
オレにとって一番に上げるのが、マッサージ。
マッサージ嬢が美人で、テクニックが上手く、しかもお安い。
そうした中のひとり、トニッちゃん...!!
これが、5年前、23歳。
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これが、一年前。
手前がスリーちゃん、ひとりおいて、トニッ....!!
そしてコミン、その奥がオレ。
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つい先日、家に来てくれたトニッ....!!
現在28歳、少し、大人っぽくなったかも知れない。
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# by yosaku60 | 2016-08-29 12:22 | バリ島=マッサージ | Trackback | Comments(0)

島村中尉とは誰で?どうなったのか?

バリ島での独立戦争....
に援軍としてジャワ海軍隊がかけつけた話は何度も書いて来た。
ジャワ海軍隊で、バリ島に上陸を成功させたのが、マルカデ大尉。
マルカデ大尉についても、過去に書いて来た。

さて、そのマルカデ大尉だが、
残留日本兵を二人連れてジャワから来たらしい。

その内のひとりは、スラッマ曹長で、、
最後までングラライと共にし、現在マルガラナの英雄墓地で祀られている。

もうひとりが、島村中尉である。
M,Simamura と呼ばれ、バリ名が伝わっていない。

マルカデ大尉は、ングラライに会うためにムンドックマランに向かった。
しかし、ジェンブラナ県でも、戦闘があった。
で、その対応に、軍を分け、一分隊を島村中尉に託した。
島村中尉隊である。

が、隊は、ジェンブラナ県の Nusa Mara で休養している時に、
スパイに密告され、敵に襲われた。
島村中尉の消息もそこで消えている。

何があったのだろう。
今朝は、Nusa Mara に調査に出発します。
# by yosaku60 | 2016-08-28 08:27 | 帰らなかった日本兵 | Trackback | Comments(0)

トゥグ・アメルタユダ(モニュメントの名)

バリ島北岸にジャワ海軍部隊が上陸したのは、一度か、二度か?
それを確かめるために、Celukan Bawang の現地調査に行ったこと...

昨日のブログに書きました。
今日は、そのつづきです。

Celukan Bawang で、
ジャワ海軍部隊上陸のモニュメントを発見した後、
もうひとつ、モニュメントがあるかも知れないと、
しつこく現地調査をしていたところ...

「ある....」

との聞き込みをしたのです。
でも、海岸ではなく、山の方の、Desa Paras という処。
んで、行ってみました。
で、二度と来れないような路地に入り、山に向かったところで、
見つけたのが、これ!
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Tug Amerta Yuda という名のモニュメントとのこと。
管理しているのが、同じ敷地に住む、Hasanudinさん(写真)
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次は、Hasanudinさんが語ってくれた話。
1、私の父は、この地の有力者だった。
2、父を頼りに来た、3人の若者がいた。
3、Gusti Membe と Nadie と Jubad の3人だった。
4、3人は、インドネシア独立のために地下活動をしていた。
5、その3人の活動をオランダ軍に密告した村人がいた。
6、Madesitran という名の村人である。
7、ある日、オランダ軍が、どかどかと、この地に入って来た。
8、父が止めるのも聞かず、オランダ兵は、寝ている3人を銃殺した。
9、その後、父は、この他に匿っていないか折檻された。
10、その折檻の場には、Hasanudinさんもいた。
11、当時、Hasanudinさんは、5歳ほどだったそうで、今でも覚えているとのこと。
12、父は、オランダ軍に連れていかれて、山の中でさらなる折檻を受けたとのこと。
13、山から帰ってきた父のげっそり細った姿を今でも覚えて居るとのこと。
14、このモニュメントは、バリ兵のベテラン(戦友会)が作ったもの。
15、独立記念日は、このモニュメントの前で盛大なセレモニーが行われる。
16、密告した村人の家族は、この地に住めなくなって、どこかに消えた。
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ところで、
Celukan Bawang のジャワ軍上陸と、
このモニュメントは、何か関係がありますか....と聞いたところ、
16、それは、ない。 
17、此処では、戦いがあったのではなく、一方的に殺されただけだ。

Celukan Bawang のジャワ軍上陸は、一度ですか、二度ですか....
とも聞いてみたが、
18、一度だけでした。....と、明言した。

日本軍統治時代のこと、覚えていますか...とも聞いてみた。
19、父を通してよく覚えている。
20、村人に橋をかける作業をさせられた時、「丈夫でない」と何度も作り直された。
21、父は、日本人は厳しすぎると、いつも苦情を漏らしていた。
# by yosaku60 | 2016-08-27 10:38 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)

バリにも自然薯があるそうな

知り合いさんから自然薯を分けて頂きました。
日本から株を持ってきて、こちらで育てた自然薯だとのこと。
夕べ、食した処、粘りがあって、美味しく頂けました。
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で、バリ島にも、
ブドグルの山の方に自然薯らしきものがあるとのこと。
バリ語では、ウビクラディ(Ubi Keladi)....
インドネシア語では、Telas というそうな。
今度、ブドグルに行ったら、探してみよっと !
# by yosaku60 | 2016-08-27 09:49 | バリ島=社会・生活 | Trackback | Comments(0)

リンデキットの戦いの現地調査

リンディキットで、オランダ軍と戦ったジャワ海軍隊....
のバリ島北海岸への上陸について語った、私の以前のブログ....

2016年7月22日の
リンディキットの戦い(その3;ジャワ海軍がバリ島に来た経緯)

で、次のように書いておいた。
再掲する。

.........

(Ⅰ説)

1946年3月3日、ワロカ海軍部隊一ヶ中隊が、
囮部隊としてバリ島北海岸のCelukan Bawang に上陸した。
そこでオランダ軍と戦い、敵兵8名を殺した。
その後、ジャワに戻り本隊に合流し、
ジャワ島西海岸から上陸しようとしたが、
敵側の警戒が厳しく、上陸できるスキがなかった。
で、バリ島北部に至り、
4月6日、Yeh Biu の地点からの上陸を敢行した。

(Ⅱ説)

4月6日、囮部隊として、バリ島北海岸のYeh Biu に上陸を敢行した。
(即ち、3月3日のCelukan Bawang 上陸は、なかったという説)

私は、どちらかというと(Ⅱ説)を指示している。
(Ⅰ説は、Ⅱ説と混同し、2度書きしている)

........

こんな風に買いたオレ、結局は逃げているのだ。
納得できない。
で、上陸地点を現地調査に行って来た。

上陸のモニュメントが二つあれば、Ⅰ説が正しい。
一つであれば、Ⅱ説が正しい確率が高くなる。

と言うことだ。
んで、コミンとコミンの息子のグデを連れて現地調査した結果....

Celukan Bawang の街とYeh Biu  の街の、
二つの街の距離が、陸上では、4キロ離れているが、
海上では、Kapur Point を隔ててとなり合った至近にあることが解った。

要するに、Celukan Bawang と書こうが、
Yeh Biu と書こうが、同じ場所であるということだ。

現地の写真で説明しよう。
ここが、Celukan Bawang の港(桟橋)....
で、桟橋の左側が、Yeh Biu である。
d0083068_1044457.jpg

そして、ジャワ海軍上陸を記念するモニュメントだが、
Celukan Bawang の港の東端の地点にあった。
立派なモニュメントだ。
d0083068_10464746.jpg

コミンの息子のグデと一緒に....
d0083068_10503318.jpg

んで、調査結果だが、住民の聞き込み結果も含めると、
Ⅱ説...即ち、ジャワ海軍が一度きりの上陸であった可能性が高い。
以後、私の書き物は、それで統一させることにする。
# by yosaku60 | 2016-08-26 10:48 | バリ島での独立戦争 | Trackback | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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